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发表于 2010-11-22 10:42
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资料-藤原广嗣
资料-藤原广嗣
藤原广嗣,生年不详,卒于天平12年11月1日(740年11月28日),奈良时代的廷臣,藤原式家宇合的长子。母亲是石上麻吕(一说是苏我石川麻吕)之女。
权倾朝野的藤原四兄弟在天平9年(737年)9月28日相继去世之时,藤原广嗣由从六位上升至从五位下。天平10年4月22日,兼任大养德(大和)守。叙爵以后被任命为式部少辅。在当时朝廷内反藤原氏势力崛起的背景下,以诽谤亲族的理由于同年12月4日,贬官为大宰少贰。藤原广嗣到大宰府赴任,对贬官强烈不满。天平12年(740年)8月29日,藤原广嗣批判时政,上表请求处分反藤原势力的要人吉备真备和僧玄昉,被当时的掌权者左大臣橘诸兄判定为谋反。起用吉备真备和玄昉的是橘诸兄,对疫病灾害以来的民心安定政策的批判实际上是橘诸兄的批判。圣武天皇对此,下召召回藤原广嗣。
藤原广嗣抗旨不遵,于天平12年,与弟弟藤原纲手一起率领大宰府的军队和隼人(译者注:隼人是古代生活在日本南九州萨摩、大隅等地,相当于今天鹿儿岛县的一个少数民族,语言属于南岛民族,古称为熊袭,后来被大和族同化)等组成了1万余掀起叛乱。
9月3日,藤原广嗣举兵的消息被飞马报到平城京(奈良)。圣武天皇任命大野东人为大将军,授予节刀,任命纪饭麻吕为副将军。动员了东海道、东山道、山阴道、山阳道、南海道等五道共17000人的军队。出仕于朝廷的隼人24人也随讨伐军效力。9月5日,任命佐伯常人、阿倍虫麻吕为勅使。
朝廷向伊势神宫奉纳币帛,并在诸国建观世音菩萨像,抄写观世音经10卷,祈求平乱的胜利。
9月21日,到达长门国的大野东人,请求使用停泊于长门国的新罗船的人员和器械。
9月22日,勅使佐伯常人、阿倍虫麻吕率领隼人24人、兵4000人渡海,进占了板柜镇(丰前国企救郡)。俘获了登美、板柜、京都三镇之兵1767人和大量的兵器。
藤原广嗣到达了企救郡的邻郡远珂郡,点燃烽火征集国内之兵。藤原广嗣率领大隅国、萨摩国、筑前国、丰后国之兵5000人,进军鞍手道,藤原广嗣之弟藤原纲手率领筑后国、肥前国之兵5000人从丰后国进军,多胡古麻吕进军田河道,从三个方面包围官军。
9月25日,丰前国诸郡司率500骑、80人、70人向官军投降。
9月29日,“藤原广嗣是凶恶的逆贼。丧心病狂,发动叛乱,陷人民于苦海之中。不孝不忠到了顶点,将会被降下神罚。从逆贼藤原广嗣者,速速归顺!杀死藤原广嗣者,授5位以上的官位”的诏书下达给九州诸国的官吏、百姓。
10月9日,藤原广嗣军1万骑到达板柜河(北九州市),在河的西岸布阵。勅使佐伯常人、阿倍虫麻吕的军队6000人余在河的东岸布阵。藤原广嗣以隼人为先锋组筏渡河,官军以弩攻击来防守。佐伯常人部下的隼人向敌方的隼人劝降。于是,藤原广嗣军的隼人停止射箭。
藤原广嗣军的3个隼人跳入河中,游向官军一方,官军的隼人把他们救了上来。看到了这一幕,藤原广嗣军的隼人20人、骑兵10余人向官军投降。投降者们把藤原广嗣军从3个方向包围官军的作战意图向官军报告,还告知了藤原纲手和多胡古麻吕的军队尚未到达的讯息。
之后,藤原广嗣军在板柜河之战中战败。藤原广嗣乘船逃到肥前国松浦郡值嘉岛(五岛列岛),想从那里逃到新罗。但是最远只到达耽罗岛(济州岛)附近,船无法前进,因为风向的改变,把船吹回了日本方向。
藤原广嗣最后在肥前国松浦郡被捕,于肥前国唐津被处死。即藤原广嗣之乱。天平13年(741年)1月,公布了对叛乱的处分,死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人。藤原式家的藤原广嗣的弟弟们也大多受牵连而被流放。这是奈良时代末期一度掌握政治实权的藤原式家在后来家世中落的重要原因之一。
为了镇住藤原广嗣的怨灵,在唐津建有祭祀藤原广嗣的镜神社。
……
藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ、生年不詳 - 天平12年11月1日(740年11月28日))は、奈良時代の廷臣。藤原式家宇合の長男。母は石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の女。
朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなった天平9年(737年)9月28日、従六位上から従五位下に昇叙する。天平10年4月22日、大養徳(大和)守を兼任する。なお、叙爵以降、式部少輔に任官されている。朝廷内では、反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に同年12月4日、大宰少弐に左遷される。広嗣は大宰府に赴任し、これを左遷と感じ、強い不満を抱いた。天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、反藤原勢力の要である吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。時の権力者左大臣橘諸兄はこれを謀反と受け取った。真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄その人への批判であることは明白であった。聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の勅を出す。
広嗣は勅に従わず、天平12年、弟の綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余を率いて反乱を起こした。
9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。朝廷に出仕していた隼人24人に従軍が命じられる。5日、佐伯常人、阿倍虫麻呂が勅使に任じられた。
朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、また、諸国に観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を祈願するよう命じられた。
9月21日、長門国へ到着した大野東人は、同地に停泊している新羅船の人員と機器の採用の許可を求めた。
9月22日、勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂が隼人24人、兵4,000人を率いて渡海して、板櫃鎭(豊前国企救郡)を攻略。登美、板櫃、京都三鎮の兵1767人と兵器多数を鹵獲した。
広嗣は企救郡の隣の遠珂郡に到着して烽火を発して国内の兵を徴集。広嗣が大隅国・薩摩国・筑前国・豊後国の兵5000人を率いて鞍手道を進軍、弟の綱手は筑後国・肥前国の兵5000人を率いて豊後国から進軍、多胡古麻呂が田河道を進軍して三方から官軍を包囲する作戦であった。
9月25日、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきた。
9月29日、「広嗣は凶悪な逆賊である。狂った反乱を起こして人民を苦しめている。不孝不忠のきわみで神罰が下るであろう。これに従っている者は直ちに帰順せよ。広嗣を殺せば5位以上を授ける」との勅が九州諸国の官人、百姓にあてて発せられた。
10月9日、広嗣軍1万騎が板櫃河(北九州市)に至り、河の西側に布陣。勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂の軍は6,000人余で河の東側に布陣した。広嗣は隼人を先鋒に筏を組んで渡河しようとし、官軍は弩を撃ち防いだ。常人らは部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせた。すると、広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめた。
広嗣軍の隼人3人が河に飛び込んで官軍側へ渡り、官軍の隼人が助け上げた。これを見て、広嗣軍の隼人20人、騎兵10余が官軍に降伏してきた。投降者たちは3方面から官軍を包囲する広嗣の作戦を官軍に報告し、まだ綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを知らせた。
その後、広嗣軍は板櫃河の会戦に敗れて敗走した。広嗣は船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。ところが耽羅嶋(済州島)の近くまで来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。
最後広嗣は肥前国松浦郡で捕らえられ、同国唐津にて処刑された(藤原広嗣の乱)。天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの後世における式家の不振を招く要因の一つになった。
広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。
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(百度百科已经接受了我翻译整理的藤原广嗣资料)
(2010) |
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