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发表于 2010-11-18 22:18
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资料-长屋王
资料-长屋王
长屋王,生于天武天皇13年(684年)?,卒于神龟6年2月12日(729年3月16日),奈良时代的皇族、公卿、正二位左大臣,作为皇族势力的巨头是当时日本政界的重量级人物,由于对立的藤原氏的阴谋,于长屋王之变中自杀。
天武天皇13年(684年)诞生说是主流观点,但根据《怀风藻》的记载,是出生于天武天皇5年(676年)。父亲是天武天皇之子高市皇子,母亲是天智天皇之女御名部皇女(元明天皇的同母姐姐),作为皇族与皇室嫡流的血统非常近。
长屋王掌权时期
长屋王在庆云元年(704年)直接升为正四位上,和铜2年(709年)任从三位宫内卿,和铜3年任式部卿,灵龟2年(716年)升为正三位。迁都平城京(奈良)后,右大臣藤原不比等成为日本政界的核心人物,与舍人亲王、长屋王等皇族势力形成对立。但长屋王娶了藤原不比等之女为妻,所以也有观点认为在藤原不比等在世时,长屋王是皇族中的亲藤原氏的一位。
灵龟3年(717年)左大臣石上麻吕去世,第二年长屋王由非参议一举升为大纳言,地位仅次于太政官的右大臣藤原不比等。藤原不比等在养老4年(720年)去世后,藤原不比等之子藤原四兄弟(藤原南家之祖藤原武智麻吕、藤原北家之祖藤原房前、藤原式家之祖藤原宇合、藤原京家之祖藤原麻吕)仍然年青,议政官中只有当时任参议的藤原房前。因此,长屋王作为皇族势力的代表成为了政界的主导者。之后长屋王在养老5年(721年)升为从二位右大臣、神龟元年(724年)圣武天皇即位的同一天升为正二位左大臣。元正天皇又对自己的妹妹吉备内亲王及其夫长屋王非常的信任。
养老7年(723年),为了解决耕地不足的问题,制定三世一身之法(译者注:一种奖励开荒的政策,持续开荒者的第三世即孙子可以获得荒地的所有权)。养老3年(719年),长屋王在长屋王邸迎接新罗的使者,举行盛大的宴会,长屋王自己所作及当时的文人们所作的诗都被《怀风藻》收录。包括宴会上所作的诗在内,《怀风藻》一共收录了长屋王的汉诗共3首。
神龟5年(728年)5月,长屋王为自己的父母、圣武天皇及历代天皇,发宏愿,抄写了大般若经一部六百卷(神龟经)。
长屋王之变
对于长屋王的权势,藤原四兄弟并不感觉愉快。藤原不比等生前,藤原四兄弟与长屋王碍于郎舅关系,并没有撕破脸。但在藤原不比等死后,围绕着藤原不比等之女、圣武天皇之母藤原宫子的称号,长屋王与藤原四兄弟发生冲突(辛巳事件),对立关系开始显现。
神龟6年(729年)2月,漆部君足和中臣宫处东人密告“长屋王密习左道,欲颠覆国家”。藤原宇合等人率领六卫府的军队将长屋王的邸宅包围,舍人亲王等人审问了长屋王之后,长屋王、长屋王妃吉备内亲王、长屋王子膳夫王等或自缢或服毒自尽。这就是长屋王之变。历史学界中认为是藤原氏进谗言的观点是主流。圣武天皇身体病弱,长屋王之变前后只有非藤原氏系的安积亲王一个儿子。除了政治上的对立之外,圣武天皇和安积亲王假如有什么不测的话,圣武天皇的姑姑吉备内亲王与长屋王所生的膳夫王等三王就成了皇位的有力继承者也是藤原氏必须铲除长屋王一族的原因。
长屋王自尽后,藤原四兄弟的妹妹、圣武天皇的夫人藤原光明子被立为皇后,开始了藤原四兄弟掌权的时代。但在天平9年(737年),藤原四兄弟就都死于当时流行的天花,当时有传言这是被逼迫自杀的长屋王的恶灵作祟的缘故。别据《续日本纪》记载,第二年的天平10年(738年)7月10日,长屋王之变的诬告者之一中臣宫处东人被大伴子虫所斩杀。大伴子虫是受长屋王恩惠的人之一,两人下围棋时谈话涉及到长屋王,大伴子虫一时激愤斩杀了中臣宫处东人。而且,这次事件中,大伴子虫并没有被问罪。《续日本纪》记载为“诬告”,据推测在《续日本纪》成书的平安时代初期的朝廷内,长屋王是无辜的是众所周知的事实。
长屋王邸
从昭和61年(1986年)到平成元年(1989年),奈良市二条大路南的苏合超市的预定建筑地,奈良文化财产研究所进行了挖掘调査。昭和63年(1988年),在奈良时代的贵族邸宅址发现大量木简(长屋王家木简)的同时,判定为是长屋王邸。长屋王邸位于平城宫的东南角邻近高级住宅街的地方,占地约3万平方米。出土的木简等遗物是了解奈良时代历史的宝贵遗产。但在长屋王邸遗址,不顾当地人和研究者的反对,建起了很多建筑,遗址被破坏。现在只在长屋王邸遗址上的Ito Yokado奈良分店的一个角落里有设有一个记念碑而已。
长屋王的特殊性
长屋王作为官员,有以下特殊性。第一,突然直接升为正四位上的官位,之前没有从政经验。第二,也没有经历过参议、中纳言,突然直接升为大纳言。第三,食封的増额和封租的全部供给,等同于亲王。关于这些,历史学界的主流观点是长屋王继承了其父高市皇子作为皇太子的待遇。寺崎保广认为,和当时的皇族政治、开始实行不久的位阶制、长屋王是天武天皇之孙中有最强血脉等原因有关。
长屋亲王说
在长屋王邸遗址挖掘出的木简中,有“长屋亲王宫鲍大贽十篇”的文字,在《日本灵异记》中关于长屋王之变的部分也有“长屋亲王”的称呼,所以也有历史学者认为在长屋王在世时被称为“长屋亲王”。长屋王与吉备内亲王之间的孩子们由外祖母元明天皇而享受二世王的待遇(本来是天武天皇的三世王),因此也有可能对长屋王也有特别待遇的可能性。根据通常的法律解释,本来“亲王”是天皇之子,或孙子中由天皇直接“亲王宣下”才能拥有的称号。
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日语原文
長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。
天武天皇13年(684年)誕生説が有力であるが、懐風藻の記事にもとづき天武天皇5年(676年)とする説もある。父は天武天皇の皇子の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
長屋王政権
長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。ただし、長屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。
霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が死去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に没すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位にあった房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。その後長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。
当時の施策としては、養老7年(723年)に田地の不足を解消するために三世一身の法が制定された。また養老3年(719年)には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている。
神亀5年(728年)5月には、王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願している(神亀経)。
長屋王の変
このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露になってきた。
神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。これが長屋王の変である。讒言であったとする説が強い。聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏系の安積親王しか男子がいなかった。政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であったことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。
王の没後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。なお、『続日本紀』によると、翌10年(738年)の7月10日、王のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。
長屋王邸
昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)にかけて、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年(1988年)に奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した[6]。長屋王邸は平城宮の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、約30,000m2を占めていた。出土した木簡などの遺物は奈良時代の生活を知る貴重な遺産となったが、地元や研究者の反対にも関わらず遺構の多くは建設により破壊された。現在はイトーヨーカドー奈良店として利用され敷地の一角に記念碑が設けられているのみである。
長屋王の特殊性
長屋王は官人として、次のような特殊性を持つ。第一に、いきなり正四位上に初叙された点である。第二に、参議や中納言も経ずにいきなり大納言になった点である。第三に、食封の増額と封租の全部支給が、親王とともに認められた点である。この点、従来は父である高市皇子が皇太子としての待遇を受けていたからとする見解が有力だったが、寺崎保広は、皇親制や位階制などが始まって間もなかったことや天武天皇の孫の中でも特に有力な血筋であったことなどを原因としている。
長屋親王説
長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったこと、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世王)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば本来親王は天皇の息子または孫に天皇から直接「親王宣下」されない限り名乗れなかったとされる。
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(百度百科已经接受了我翻译整理的长屋王资料)
(2010) |
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