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楼主: 菩提本非树

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 楼主| 发表于 2010-11-9 16:38 | 显示全部楼层

资料-磐井之乱

资料-磐井之乱

        磐井之乱指527年(继体天皇21年),向朝鲜半岛南部进军的近江毛野率领的大和朝廷军,被筑紫君磐井所阻挡,第二年的528年(继体22年)11月,被物部粗鹿火所镇压的一场叛乱。也有观点认为是大和、九州两个政权间的战争。磐井之乱的国际背景是当时大和、百济一方,与新罗之间围绕着朝鲜半岛南部利益的主导权之争。
        关于磐井之乱的文献史料,除了《日本书纪》之外,在《筑后国风土记》逸文(“释日本纪”卷13所引)、《古事记》(继体天皇段)、《国造本纪》(“先代旧事本纪”卷10)中也有简单的记载。
        《筑后国风土记》在有“官军突然进攻起我军了”的记载。在《古事记》中,只有“因为磐井不服从天皇的命令,非常无礼,所以被杀”的简短记载而已,并没有关于磐井作乱的记载,所以有的历史研究者认为《日本书纪》的记载中有相当多的润色成分,不能视之为完全的史实。
        经过
        关于磐井之乱的经过,来源于真伪难定的《日本书纪》中的记载。
        527年(继体天皇21年)6月3日,大和朝廷的近江毛野率领6万军队,意图收复被新罗占领的南加罗、喙己吞(译者注:原先属于被大和朝廷控制的任那地区的国名),向任那进军。知道这个军事计划的新罗,贿赂了筑紫(九州地区北部)的实力派磐井(日本书纪记载为筑紫国造磐井),请求其阻拦大和朝廷的军队。
        磐井于是起兵,在控制了火之国(肥前国、肥后国)和丰之国(丰前国、丰后国)的同时,封锁了日本和朝鲜半岛之间的海,将朝鲜半岛诸国来的朝贡船引诱进自己的地盘,阻拦近江毛野军的进军,并与之交战。大和朝廷的商量派遣平乱军的会议上,继体天皇向大伴金村、物部粗鹿火、许势男人等人询问平乱军将军的人选,物部粗鹿火被众人推举,同年8月1日,继体天皇任命物部粗鹿火为将军。
        528年11月11日,磐井军与物部粗鹿火率领的大和朝廷军在筑紫三井郡(现福冈县小郡市三井郡附近)交战,一番激战之后,磐井军败北。据《日本书纪》记载,当时磐井被物部粗鹿火斩杀。据《筑后国风土记》逸文记载,磐井逃往丰前国的上膳县,并死在那里的山中(但是大和朝廷军没有找到磐井的尸体)。同年12月,磐井之子筑紫君葛子为了避免连坐之罪,向大和朝廷献上糟屋(现福冈县糟屋郡附近)的屯仓,被免除死罪。
        磐井之乱的529年3月,大和朝廷再次派近江毛野前往任那的安罗,与新罗进行领土交渉。
        在《筑后国风土记》逸文中还记载了当时交战的情形、磐井之墓的情况。《古事记》中记载,筑紫君石井不服从天皇的命令,所以天皇派遣物部荒甲和大伴金村杀死了石井的简单记载。《国造本纪》记载了磐井之所以作乱是受到了新罗的教唆。
        意义
        磐井之乱作为日本古代的重要事件,在1950年代前半期被日本历史学界所关注是。当时,林屋辰三郎、藤间生大、门胁祯二等人认为:由于大和朝廷几次三番出兵朝鲜半岛,造成了九州地区的沉重负担,磐井之乱是九州地区的不满情绪的总爆发。
        进入1960年代后,坂本太郎、三品彰英等人认为:《日本书纪》所记载的磐井之乱经过了润色,实际上只是《古事记》上所记载的小事件。但是这些观点也并没有否定磐井之乱的意义,所以继续以磐井之乱的意义为着眼点,继续进行研究。把磐井之乱定位为日本古代史的重要事件,是很多研究、考证的共识。
        进入1970年代中期后,鬼头清明、山尾幸久、吉田晶等人相继发表文章,认为:在继体朝前后是日本国家形态的形成期,在大和朝廷合并各个地区的政治势力的过程中,发生了磐井之乱。以前旧的观点认为磐井之乱是地区豪族对中央政权的叛乱,这种新观点从古代国家形成为着眼点,指出当时的日本并不存在统一的中央政权,磐井是独立的地区国家,与企图统一日本的大和朝廷发生了冲突,即磐井之乱的爆发。
        1978年,在埼玉县的稻荷山古坟出土了金错铭铁剑,这一发现使统一的中央政权的形成时期可以追溯到5世纪后半期的观点成为主流观点。使历史学界开始重新探讨磐井之乱的意义和历史定位。从与朝鲜半岛的关系为着眼点,有与大和政权与百济之间的组成的联盟相对的,是与新罗之间的结盟企图自立的磐井,磐井之乱与其说是大和朝廷统治动摇的表现,不如说是大和朝廷欲强化地区支配力等说法,对磐井之乱的评价,并没有达成一致。
        另外,从考古学的角度来看,在从战后北九州发现的石制物品(石人石马)和装饰古坟等的分布、消长的状况来判断,可以把九州广域文化圈的这些和磐井之乱联系起来。
        异说
        在当时日本的北九州,有一个大和朝廷之外的独立国家(可称为倭国或九州王朝)。在中国史书中提到的倭王实际上是磐井王,倭国(九州王朝)有独立的年号(九州年号),并拥有独立的外交、国家主权等等。所谓的磐井之乱不如说是想独占外交权的大和朝廷对倭国的叛乱。这种说法对当时日本存在着一个包含了九州在内的统一王朝(大和朝廷)存在表示怀疑。比起大和王朝,磐井王朝是更有权威的国家。但是,古田武彦(译者注:日本历史学家,主张九州王朝说和多王朝并存)撤回了这种说法,理由是多元王朝说是叛乱方编造出来的观点。
        ……
  日语原文
        磐井の乱(いわいのらん)とは、527年(継体21)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけな)率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がはばみ、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧された反乱または王権間の戦争。この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがあったと見られている。
        磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。
        なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。
        経緯
        真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。
        527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
        磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
        528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。
        乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。
        以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。また、『古事記』は、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(あらかい)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。
        意義
        磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎・藤間生大・門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト王権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。
        これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただし、それらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったため、乱の意義に着目した研究が続けられ、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける考えが、多くの研究・検証の結果、通説となった。
        1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は、古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。
        1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったものとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する評価は必ずしも一致していない。
        一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が次第に判明するに従って、それらの九州広域文化圏を磐井の乱と関連づける議論がなされるようになっている。
        異説・俗説
        当時、北九州にはすでにヤマト王権とは別個の政権(倭国政権:九州王朝)があった。中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号(九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったとする説(九州王朝説)がある。 この説は、当時の日本においてヤマト王権が九州を含む統一王朝であったことを疑問視し、むしろヤマト王権よりも磐井政権の方が日本における有力政権だったと見なすものである。ただし、古田武彦はこの説を取り下げた。そのため、多元王朝説ではこの乱自体を造作とする。
        ……
        (2010)
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 楼主| 发表于 2010-11-9 17:37 | 显示全部楼层

押坂彦人大兄皇子

押坂彦人大兄皇子
       
        押坂彦人大兄皇子,生卒年不详,日本古坟时代的皇族。又名麻吕古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄。押坂彦人大兄皇子是敏达天皇的长子,母亲是息长真手王之女广姬。押坂彦人大兄皇子是舒明天皇、茅渟王的父亲。(译者注:押坂彦人大兄皇子虽然本人没有即位成为天皇,但是通过儿子舒明天皇,其血统融入了现在的日本皇室当中,是当今日本天皇的父系祖先之一。)
  押坂彦人大兄皇子是没有苏我氏血统的敏达王统的最有实力者,拥有忍坂部(刑部氏)、丸子部等独立的财政基础,离开王都经营水派宫(今奈良县河合町?)。用明天皇去世(587年)后,押坂彦人大兄皇子虽然成为了王位继承者的候补,但此时对立的苏我系王族崛起,押坂彦人大兄皇子的事迹从此不见于史料,有人推测押坂彦人大兄皇子死于苏我氏的暗杀。但是,根据《一代要记》、《绍运录》逆推舒明天皇的生年是593年,而且舒明天皇之后还有弟弟出生,所以592年推古天皇即位后,押坂彦人大兄皇子仍然有一段时间在世。作为非苏我系的王位继承候补者,应该拥有可以和押坂彦人大兄皇子与苏我系的竹田皇子、厩户皇子(圣德太子)比肩的地位。607年,资养王位继承人厩户皇子(圣德太子)的壬生部被设立,在此之前,押坂彦人大兄皇子似乎已经去世。根据《延喜式》中诸陵寮的记载,押坂彦人大兄皇子葬于成相墓(奈良县广陵町的牧野古坟?)。
  忍坂部、丸子部等押坂彦人大兄皇子的世袭私领被称为“皇祖大兄御名入部”,以后由押坂彦人大兄皇子的儿子田村皇子(即后来的舒明天皇)、中大兄皇子(即后来的天智天皇,舒明天皇之子)继承,大化改新后返还国家(据《日本书纪》大化2年3月壬午条的记载)。这些世袭私领,是在押坂彦人大兄皇子去世后,其子孙与苏我氏、上宫王家对抗,使舒明天皇即位,大化改新的实现成为可能的财政保证。
        ·
        日语原文
        押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、生没年不詳)は、古墳時代の皇族。麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子・皇祖大兄とも。敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫。舒明天皇・茅渟王の父に当たる。
  蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったらしいが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。但し、『一代要記』や『紹運録』を基に逆算される舒明の生年(593年)とその弟の存在を考えると、592年の推古天皇即位後も暫く生存していたはずで、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。『延喜式』諸陵寮によれば、成相墓(ならいのはか、奈良県広陵町の牧野古墳か)に葬られた。
  忍坂部や丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられており、彦人大兄の死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われている。
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 楼主| 发表于 2010-11-9 21:02 | 显示全部楼层

苏我虾夷

苏我虾夷

        苏我虾夷,飞鸟时代的大臣(译者注:“大臣”是日本古代的官职名,仅次于大连,是高官),在中大兄皇子(后来的天智天皇)、中臣镰足(译者注:藤原氏的始祖)、苏我仓山田石川麻吕等发动的乙巳之变中自杀害的日本古代政治家、贵族。
        《日本书纪》中记载的名字为苏我虾夷,通称为丰浦大臣。《上宫圣德法王帝说》中记载为苏我丰浦毛人。“虾夷”并不是丰浦大臣的本名。一种观点认为,丰浦大臣自死后,政变的胜利者们在历史上抹去了丰浦大臣的本名,《日本书纪》称丰浦大臣为“虾夷”含有贬低、侮辱的含意。“虾夷”原本是大和民族对日本北部文化相对落后的原住民的一种侮辱性称呼。有人认为“毛人”是丰浦大臣的本名,也有人认为“毛人”和“虾夷”一样,是种侮辱性称呼。另一种观点认为这些名字并不带贬意,而是给人精强、良好的印象的名字。
        苏我虾夷从推古天皇末年到皇极天皇的时代,权倾朝野。推古天皇去世后,选定皇位继承者之时,苏我虾夷矫推古天皇的遗诏,拥立田村皇子即位,即舒明天皇。当时有力的皇位继承候补者有田村皇子和山背大兄王(大兄在当时的日本有皇太子的意思,但是《日本书纪》没有山背大兄王成为了皇太子记载),苏我虾夷杀死了欲拥立山背大兄王的叔父苏我境部摩理势。
        《日本书纪》中认为这是苏我虾夷专横的一个事例。但是也有观点认为在苏我虾夷之父苏我马子死后,苏我氏内忧外患,正处于风口浪尖之上,苏我虾夷为了和皇族、诸豪族保持和谐的关系,拥立了与苏我氏没有血缘关系的舒明天皇即位。
        舒明天皇去世后,苏我虾夷又拥立了皇极天皇,强迫山背大兄王(译者注:圣德太子之子)的私人部曲为自己建造墓所。苏我虾夷为病重为理由,未经朝廷的许可,私授儿子苏我入鹿大臣之位,授与次子原属于物部氏的大臣之位(以苏我入鹿兄弟的祖母是物部守屋之妹为理由)。
        苏我入鹿袭击山背大兄王,逼迫上宫王族(译者注:圣德太子一族)一族自杀。在《日本书纪》中,据说苏我虾夷得知了苏我入鹿的这些行为后大怒,发出了“危及了自己”的叹息。皇极天皇4年(645年),中大兄皇子等人在皇极天皇的面前杀了苏我入鹿。归化人汉直一族作为苏我氏一党,聚集在苏我氏的城寨。中大兄皇子派遣巨势德陀作说客,苏氏军不战而溃,纷纷逃亡。苏氏虾夷点燃了自家邸宅,自焚而死。《日本书纪》中记载,《天皇记》在此时被焚毁,但《国记》逃过一劫,被人献给了中大兄皇子,但最终也没能保存下来。
        ·
        日语原文
        蘇我 蝦夷(そが の えみし)は、飛鳥時代に大臣(おおおみ)となり、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂らのいわゆる乙巳の変で自害した政治家、貴族。
        『日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。 蝦夷は蝦夷と同じ名前であるため蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。死後、従来の名前を消され新たに卑しい名前を付けられたとする説と、精強な印象を良いイメージとして使用した名前であるとの説がある。
        推古天皇末年から皇極天皇の御代にかけて権勢をふるった。推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古天皇の遺勅として田村皇子を舒明天皇として即位させた。有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王(大兄は皇太子の意味となれるが山背大兄王が皇太子となったという記述は日本書紀にはなく、単なる皇子とする者もいる)がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害した。
        『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。
        舒明天皇の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ずに紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)
        蝦夷の子の蘇我入鹿は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。日本書紀は、入鹿が山背大兄王一族を滅ぼした暴挙を聞いた蝦夷は「自分の身を危うくするぞ」と嘆いた。皇極天皇4年(645年)に天皇の御前で入鹿が殺されると、帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の舘に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得して立ち去り、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまった。蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した。『日本書紀』に『天皇記』はこの時に失われ「国記」は難を逃れ中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。
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发表于 2010-11-10 08:11 | 显示全部楼层
天哪,相当的牛啊。
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 楼主| 发表于 2010-11-10 16:02 | 显示全部楼层

资料-苏我入鹿

资料-苏我入鹿

        苏我入鹿,大臣(译者注:“大臣”是日本古代的官职名,物部氏被诛后,没有了“大连”一职,“大臣”是最高官职),大和朝廷的权臣。在大化改新前夜的乙巳之变中,苏我入鹿被杀,成为日后苏我氏没落的转折点。
        以下主要根据《日本书纪》等的记载。日期是旧历。
        青少年时期师从于僧旻(译者注:从中国到日本的渡来人,据说是大魏陈思王曹植的后代),在学问堂学习,据说是个很有天分的才子。
        苏我入鹿在父亲大臣苏我虾夷晩年的642年(皇极天皇元年),皇极天皇即位之际,代替苏我虾夷执掌国政。
        第二年的643年(皇极天皇2年)10月6日,苏我虾夷没有通过天皇,私自将大臣之位授给苏我入鹿。
        由此,苏我入鹿即在实质上,也在形式上,继承了苏我氏的家督之位。此时的日本,在圣德太子改革以后,皇室中有强烈的集权于天皇的改革呼声,为了抑制这些倾向,苏我入鹿欲拥立有苏我氏血统并与苏我氏关系紧密的古人大兄皇子为天皇。因此,圣德太子之子山背大兄王等上宫王族成为了苏我氏权力之路上的阻碍,被苏我入鹿逼迫自杀。这是在苏我入鹿继承大臣之位不足一个月的11月上旬发生的事。但是,《藤氏家传》记载了与《日本书纪》相矛盾的说法:苏我入鹿怕不满皇极天皇即位的山背大兄王谋反,与其他皇族一起谋划,暗杀了山背大兄王(即杀山背大兄王不是苏我入鹿的单独行动)。
        644年(皇极天皇3年)11月,苏我入鹿在甘樫丘修建邸宅,并称之为“天子之宫门”、“谷之宫门”,更称自己的子女们为皇子,还在亩傍山修筑要塞,代替皇室执政,独断专行。
        通过这些政策,苏我入鹿巩固了其日本实质上的最高权力者的地位,人人都对他非常畏惧。但是,这样的苏我入鹿之天下并没有持续太久。古人大兄皇子的异母弟、其皇位继承的竞争者中大兄皇子(后来的天智天皇)与中臣镰足等人通过乙巳之变,在飞鸟板盖宫的大极殿,皇极天皇的面前暗杀了苏我入鹿。
        暗杀的暗号是朝鲜使者上表文的宣读。因为当时暗杀迟迟没有动手,苏我入鹿的堂兄弟苏我石川麻吕宣读上表文之际,直冒冷汗、肩膀抖动,觉查到苏我石川麻吕可疑状况的苏我入鹿问:“为什么发抖?”苏我石川麻吕回答:“是在大王的御前的缘故。”中大兄皇子看刺客佐伯子麻吕等人畏惧苏我入鹿之威,不敢动手,就亲自跳出去。佐伯子麻吕等人也飞快杀出,砍到了苏我入鹿的头部和肩部。苏我入鹿大惊,站起身来,被佐伯子麻吕砍到一只脚。苏我入鹿倒下,向皇极天皇申诉自己无罪,尽管如此,中大兄皇子等人并没有停止刺杀,苏我入鹿的尸体被扔到了下起了雨的殿外。
        之后,苏我入鹿之父苏我虾夷也自杀,由此苏我氏宗家灭亡。苏我石川麻吕及其弟弟苏我赤兄相继担任大臣之职。苏我赤兄在壬申之乱中被流放后,苏我氏(石川氏)虽然仍能官至纳言、参议,但是家格已经降低,无法恢复以往的荣光。到了平安时代初期,连公卿也混不上了,从历史的舞台上消失。
        《日本书纪》批判了种种苏我入鹿的跋扈事迹及苏我氏的越权行为,准备让古人大兄皇子继承皇位的阴谋。也有观点认为苏我氏实际上是开明的。(译者注:《日本书纪》由反苏我氏的胜利者所编纂,很可能对苏我虾夷父子进行了丑化)在建筑所谓“天子之宫门”、“谷之宫门”的地方,发掘出了武器和武器库的遗址,这些是为了应对大唐、百济等当时的国际状况。苏我氏还数次向大唐派遣遣唐使,对大唐向日本派兵保持警戒。
        关于苏我入鹿被暗杀及之后苏我氏宗家灭亡,近年来,也有观点认为是围绕着改革的主导权之争,苏我氏与皇族、反苏我氏势力互不相让,所以苏我入鹿才被暗杀。还有,门胁祯二等人认为,中大兄皇子(后来的天智天皇)和中臣镰足(后来的藤原镰足)在史料中,抹去了苏我入鹿的本名,为其取了一个带侮辱性的“入鹿”的名字。(译者注:日语中最常见的骂人的语言就是“马鹿”、“马鹿野郎”,音译就是“八嘎”、“八嘎牙路”。)
        在飞鸟寺境内和靠近甘樫丘的地方,有“苏我入鹿的首级之冢”。2005年11月13日,在奈良县明日香村,也发掘出了被认为是苏我入鹿府邸的遗址。
        ……
        日语原文
        蘇我 入鹿(そが の いるか)は、大和朝廷の有力者。大臣(おおおみ)。大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。
        以下は主に『日本書紀』などの記述による。日付は旧暦である。
        青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。
        父の大臣・蘇我蝦夷の晩年の642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。
        翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。
        これにより、実質的にも形質的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。ただし、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族とはかって暗殺した(つまり犯行は入鹿の独断ではない)と日本書紀とは矛盾する記載が「藤氏家伝」にある。
        644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。
        これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬した。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。
        暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が文を読み上げながら震えて冷や汗をかい、肩を震わせていた不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。佐伯子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、佐伯子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。
        後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務めるが、赤兄が壬申の乱で流罪になって以降は、蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとというクラスにまで低下し、かつての栄光は戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史から姿を消す事になる。
        『日本書紀』は入鹿の事績を蘇我氏の越権行為ならびに古人大兄皇子への皇位継承の準備と批判しているが、蘇我氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったという意見もある。実際、「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは、武器庫の遺構や武器が発掘されている。また、遣唐使も度々派遣されており、唐の日本派兵を蘇我氏が警戒していたことが伺える。
        入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。
        また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もある(門脇禎二ら説)が、これには反証が試みられている(加藤謙吉)。
        飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に、「入鹿の首塚」が存在する。また、2005年11月13日に奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘された。
        ……
        (百度百科已经接受了我翻译整理的苏我入鹿资料)
        (2010)
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 楼主| 发表于 2010-11-11 19:04 | 显示全部楼层

资料-乙巳之变

资料-乙巳之变

        乙巳之变指在日本飞鸟时代,由中大兄皇子、中臣镰足等人暗杀苏我入鹿,并消灭苏我氏宗家的一场宫廷政変。之后,中大兄皇子改革了日本政治体制,史称“大化改新”。日本一般通俗的说法也将暗杀苏我入鹿的事件称之为“大化改新”,但是严谨的说法是将政变事件称之为“乙巳之变”,之后一连串的政治改革被称之为“大化改新”。
        经过
        “经过”的部分根据《日本书纪》的记载。
        苏我氏的专横
        推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(也有说是推古天皇29年2月5日),执掌朝廷政权的厩户皇子(圣德太子)去世。圣德太子死后,再没有能压制大豪族苏我氏的人,苏我氏的专横日甚一日,其权势到了欺凌天皇家的地步。
        推古天皇34年5月20日(626年6月19日),苏我马子去世,其子苏我虾夷继承了大臣(译者注:“大臣”是日本古代的官职名,物部氏被诛后,没有了“大连”一职,“大臣”是最高官职)之位。推古天皇36年3月7日(628年4月15日),推古天皇没有指定继承人就去世了。有力的皇位继承者有田村皇子和山背大兄王(圣德太子之子)。虽然山背大兄王有苏我氏的血统(圣德太子之母是苏我马子的姐妹苏我小姊君,山背大兄王之母是苏我虾夷的姐妹),但是山背大兄王贤能,同时有上宫王族(圣德太子一族)势力的支持,这些都是苏我氏专权的阻碍,所以苏我虾夷反而拥立没有苏我氏血统的田村皇子。苏我虾夷消灭了拥立山背大兄王的叔父苏我境部摩理势,拥立田村皇子即位,即舒明天皇。苏我氏的权势日盛一日,豪族们无法在朝廷中出仕,只有苏我氏一党能出仕。
        舒明天皇13年10月9日(641年11月17日),舒明天皇去世,皇后宝皇女即位,即皇极天皇。苏我氏的专横更甚往夕。642年7月,因为久旱无雨,苏我虾夷在百济寺祭拜菩萨像、四天王像,众僧诵经、烧香,苏我虾夷进行祈雨。第二日,只下了一点点雨,之后就完全无雨。8月,皇极天皇在南渊川边祭拜四方,进行祈雨,不久雷雨大作,持续了5日。人们纷纷称皇极天皇为“至德天皇”。这是苏我氏和天皇家在被认为是古代君主资格的祈祷力方面的较量,天皇家取胜。这些都是日后成书的史书《日本书纪》的观点。
        同年,苏我虾夷及其子苏入鹿为了建造自己的陵墓,劳役全日本的民众,连圣德太子一族的领民也包括在内,圣德太子的女儿大娘姬王为此悲愤控诉。
        643年10月,苏我虾夷托病,未经朝廷允许,私自将紫冠授与长子苏我入鹿。苏我入鹿成为大臣,苏我虾夷的次子取得了原属于物部氏的大臣之位(以苏我入鹿兄弟的祖母是物部守屋之妹为理由)。
        上宫王族的灭亡
        同年11月,苏我入鹿欲拥立有苏我氏血统的古人大兄皇子为天皇,因此有力的皇位继承权者山背大兄王成了苏我入鹿野心的阻碍。苏我入鹿派巨势德太、土师娑婆连率军进攻山背大兄王所居住的斑鸠宫。山背大兄王凭舍人数十人,拼死抵抗,击杀土师娑婆连,但最终逃往生驹山。此时山背大兄王的亲信三轮文屋君劝山背大兄王逃往东国以图东山再起,山背大兄王不愿再给百生带来战乱之苦,又回到了斑鸠寺,和上宫王族的王子们一起自杀,有圣德太子血统的上宫王族就此灭亡。苏我虾夷听说了苏我入鹿灭亡山背大兄王一族的暴行后,发出了“此举危及了苏我氏”的叹息。
        暗杀苏我入鹿
        神官一族的中臣镰足(藤原氏的始祖)憎恨苏我氏的专横,秘密筹划打倒苏我氏的计划。中臣镰足首先接近轻皇子(日后的孝德天皇),但发现他的器量还不够,就继续寻找能起到武装政变核心作用的人物。
        在法兴寺踢球时,中大兄皇子(日后的天智天皇)的皮鞋踢球时踢脱了,被中臣镰足捡到交给中大兄皇子。就是这个缘分,让俩人亲近起来。中大兄皇子和中臣镰足在南渊请安的私塾,学习周公、孔子的儒学,在往返的路上,密议打倒苏我氏的计划。苏我镰足更进一步,把苏我一族的长老苏我石川麻吕引入了反苏我入鹿的阵营,让苏我石川麻吕之女作了中大兄皇子的王妃。
        645年,三韩(新罗、百济、高句丽)进贡的使者来到日本。在举行三国的进贡仪式之时,大臣苏我入鹿也必定会出席。中大兄皇子、中臣镰足认为这是个好机会,决定暗杀苏我入鹿。
        同年6月12日,在举行三国的进贡仪式之时,皇极天皇出席大极殿,古人大兄皇子随侍身旁,苏我入鹿也入朝。苏我入鹿的猜疑心强,日夜剑不离手,在俳优道化的劝说下,苏我入鹿解除了剑。中大兄皇子命令卫门府紧闭宫门。苏我石川麻吕宣读上表文。中大兄皇子持长枪隐藏在殿侧,中臣镰足取弓矢潜藏在一旁。海犬养胜麻吕把两把剑交给佐伯子麻吕和葛城稚犬养网田。
        原来负斩杀苏我入鹿任务的佐伯子麻吕和葛城稚犬养网田俩因为恐惧,于是把饭用水咽下去,便立刻就吐了出来。中臣镰足训斥俩人。苏我石川麻吕宣读表文之时,迟迟不见佐伯子麻吕等人动手,直冒冷汗、声音乱擅、手在抖动,觉查到苏我石川麻吕可疑状况的苏我入鹿问:“为什么发抖?”苏我石川麻吕回答:“因为靠近天皇,畏惧天皇之威而流了冷汗。”
        中大兄皇子看刺客佐伯子麻吕等人畏惧苏我入鹿之威,不敢动手,就亲自跳出去。佐伯子麻吕等人也飞快杀出,砍到了苏我入鹿的头部和肩部。苏我入鹿大惊,站起身来,被佐伯子麻吕砍到一只脚。苏我入鹿倒在皇极天皇御座前,叩首问道:“我有何罪?请天皇圣裁。”皇极天皇大惊,询问中大兄皇子。中大兄皇子答道:“苏我入鹿屠戮皇族,意图夺取皇位。”皇极天皇听了后就退向殿内。佐伯子麻吕和葛城稚犬养网田于是斩杀了苏我入鹿。这日天降大雨,庭院中溢满了雨水。苏我入鹿的尸体只被盖了一层纸障,扔到了庭院中淋雨。
        苏我氏宗家的灭亡及大化改新
        古人大兄皇子逃回自己的宫殿,并说“韩人杀鞍作臣(韩人指中大兄皇子、鞍作指苏我入鹿),吾心痛矣”。中大兄皇子立刻进入法兴寺做好战备。诸皇子、诸豪族都加入中大兄皇子的阵营。归化人汉直一族作为苏我氏一党,聚集在苏我氏的城寨。中大兄皇子派遣巨势德陀作说客,苏我军不战而溃,纷纷逃亡。也有由于古人大兄皇子在飞鸟寺出家,使苏我氏失去可以拥立为天皇的对象,从而丧失了战斗意志的说法。
        次日的6月13日,苏我虾夷在自家的城寨放火,《天皇记》、《国记》及其它珍宝都被点燃,自焚而死。船史惠尺在此时将《国记》从火中抢出,献给中大兄皇子。就这样,长年权倾朝野的苏我氏宗家灭亡。
        又次日的6月14日,皇极天皇让位于轻皇子即孝德天皇。中大兄皇子被立为皇太子。中大兄皇子任命阿倍内麻吕为左大臣,苏我石川麻吕为右大臣,中臣镰足为内臣(译者注:“内臣”是日本飞鸟时代的官职,属于要职),并进行了被称之为“大化改新”的政治改革。
        《日本书纪》之外的其它历史观点
        轻皇子首谋者说
        远山美都男推测中臣鎌足、中大兄皇子只是参与乙巳之变的重要人物,轻皇子才是主谋。理由是:乙巳之变后,占据孝德朝的中枢的苏我石川麻吕和阿倍内麻吕,都是在轻皇子的根据地难波周边的势力,其间总和轻皇子有些特殊的关系;乙巳之变后,大和政权迁都于难波长柄丰崎宫等。
        效仿朝鲜半岛诸国说
        当时的时代背景是:在朝鲜半岛的高句丽和新罗两国,642年,高句丽的渊盖苏文发动宫廷政变弑杀荣留王,成为高句丽新的统治者,而643年新罗的金庾信等人拥护善德女王,镇压了毗昙发动的叛乱,维持了王族中心体制。苏我入鹿消灭了山背大兄王企图集中权力,是有心效仿渊盖苏文;而发动乙巳之变的诸臣则与金庾信类似。以上是吉田孝的观点。
        保守势力的政变说
        在飞鸟甘樫丘的苏我入鹿邸宅遗址,从2005年开始的挖掘成果证实:在所谓“谷之宫门”的地方是兵舎和武器库。还有的观点认为,从苏我虾夷邸宅的位置和苏我氏建立的飞鸟寺的位置来看,苏我氏在飞鸟板盖宫的修筑城寨,只是为了防备外敌,守卫都城。
        这种说法认为:618年建立的大唐的影响力波及朝鲜半岛。在倭国,掌权的苏我氏感受到了来自大唐的军事威胁。为此,一改倭国以往向百济一边倒的外交国策,与朝鲜半岛的各国进行协调合作。与此相对的,向来在外交路线上亲百济的中臣镰足和中大兄皇子等保守派,才意图推翻苏我氏为代表的开明派。打倒苏我氏后,保守派推行亲百济的外交政策,与大唐发生了白村江之战,并战败。所谓的“大化改新”是战败后,得了教训才施行。
        ……
        日语原文
        乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。
        経緯
        以下は『日本書紀』に拠る事件の概要である。
        蘇我氏の専横
        推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになった。
        推古天皇34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させることを強行する。舒明天皇である。蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族たちは朝廷に出仕せず、もっぱら蘇我家に出仕する有り様となった。
        舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した。皇極天皇である。蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。642年7月、日照りが続いたため蝦夷は百済寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったが、その翌日には降らなかった。8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり、5日間続いた。人々は「至徳天皇」と呼んだ。これは蘇我氏と天皇家が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、天皇家が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味する。
        同年、蝦夷とその子の入鹿は自分たちの陵墓の築造のために、天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。
        643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ずに紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。
        上宮王家の滅亡
        同年11月、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇に為さんと欲し、そのためには有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えた。入鹿は巨勢徳太、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。これに対し山背大兄王は、舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。そこで側近の三輪文屋君からは東国へ逃れて再挙することを勧められるが、民に苦しみを与えることになると採り上げなかった山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺して聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼした暴挙を聞いた蝦夷は「自分の身を危うくするぞ」と嘆いた。
        蘇我入鹿暗殺
        神祇を職とする一族の中臣鎌子は蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌子はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心たりえる人物を探した。
        法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌子は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌子は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。
        645年、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める。
        同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣をはずさせていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。
        入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌子は2人を叱咤した。石川麻呂が表文を読み進めるが子麻呂らは現れない、恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜふるえるのか」と問うた。石川麻呂は「天皇のお近くが恐れ多く、汗が出るのです」と答えた。
        中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭して言った「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問うた。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えた。皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。
        蘇我本宗家の滅亡と大化の改新
        古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰った(このとき皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と述べたという)。中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固めた。諸皇子、諸豪族はみなこれに従った。帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の舘に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得して立ち去り、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまった(飛鳥寺での古人大兄皇子の出家を受け、旗印を無くした蘇我氏の戦意喪失を図ったとする説もある)。
        翌6月13日、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。船史恵尺がこのうち『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。
        翌6月14日、皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇である。中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣。中臣鎌子を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。
        諸説
        軽皇子首謀者説
        遠山美都男は中臣鎌足・中大兄皇子はクーデターグループの一部にすぎず、軽皇子が変の首謀者だと推測している。変後の孝徳政権の中枢をしめた蘇我石川麻呂と阿倍内麻呂が、軽皇子の本拠地であった難波周辺に勢力基盤を持つか何らかの縁があったこと、また変後に難波に遷都(難波長柄豊崎宮)したことなどを理由としている。
        半島諸国モデル説
        蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、高句麗における淵蓋蘇文のクーデターを意識しており、乙巳の変は新羅における金庾信らによる毗曇の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解がある。
        反動クーデター説
        2005年から始まった発掘の結果、飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、「谷の宮門(たにのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏は飛鳥板蓋宮の周り砦を置き外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。
        当時618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。蘇我氏打倒後、保守派は百済重視外交を推し進め、白村江の戦いでそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」はその後に行われたと考えられる。
        ……
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 楼主| 发表于 2010-11-12 00:11 | 显示全部楼层

资料-壬申之乱

资料-壬申之乱

        壬申之乱是发生在天武天皇元年(672年)的日本古代最大规模的内乱。一方是天智天皇的太子大友皇子(明治3年1870年,追封为弘文天皇),另一方是得到地方豪族相助而扯起反旗的天智天皇之弟大海人皇子(日后的天武天皇)。结果大海人皇子获胜,是日本历史上少见的叛乱者胜利的例子。天武天皇元年的干支纪年为壬申,故被称为壬申之乱。
        经过
        660年代后半期,迁都于近江宫的天智天皇册封同母弟大海人皇子为皇太子(《日本书纪》记载为“皇太弟”。另有说法认为所谓的“皇太子”、“皇太弟”是壬申之乱的胜利者大海人皇子系编纂《日本书纪》时编造出来的)。但是,天智天皇10年10月17日(671年11月26日),天智天皇又任命自己的儿子大友皇子为太政大臣,开始显露有立大友皇子为继承人的用意。之后,天智天皇病倒。大海人皇子推举大友皇子为皇太子,自己则申请出家,退回吉野宫(今奈良县吉野)。天智天皇同意了大海人皇子的申请。
        12月3日(672年1月10日),天智天皇在近江宫去世,享年46岁。大友皇子继承大统,此时还未满24岁。大海人皇子于天武天皇元年6月24日(7月27日),开始离开吉野,经由伊贺、伊势,逃往美浓。在美浓,听从于大海人皇子指示的多品治已经兴兵,封锁了不破要隘。这时,大海人皇子动员了东海道、东山道两道诸国的兵马。进入美浓后,聚集了东国来的兵马的大海人皇子在7月2日(8月3日)兵分两路,进攻大和国、近江国两方。
        近江朝廷的大友皇子一方,向东国和吉备(译者注:当时的日本国名,后来被分为了备前、备中、备后、美作四国)、筑紫(九州)派出使者,要求进行兵力动员。向东国派出的使者被大海人皇子一方的部队所阻,吉备和筑紫的兵力没能动员起来。大友皇子一方只有集中附近几国的兵力。
        大海人皇子离开大和(译者注:吉野宫属于大和,现代的奈良县,也大致相当于律令制的大和国)之后,近江朝廷在倭京(飞鸟时代的古都)聚集了兵马,大海人皇子一方的大伴吹负举兵后,夺取这支兵马的指挥权。大伴吹负与从西、北两个方向杀来的近江朝廷军队展开激战。近江朝廷一方占了优势,大伴吹负不敌,数度败走。大伴吹负不断收拢败军。不久,由纪阿闭麻吕指挥的来自美浓的援军到达,大伴吹负才摆脱窘境。
        近江朝廷的军队也杀向美浓,但由于指挥混乱,滞军不前。大海人皇子一方的村国男依等率军直进,大海人皇子的侧翼部队在7月7日(8月8日)于息长的横河与近江朝廷的军队开战,连战连胜。7月22日(8月23日)的濑田桥之战(滋贺县大津市唐桥町),近江朝廷军大败。第二日的7月23日(8月24日),大友皇子自杀,壬申之乱结束。第二年的天武天皇2年(673年)2月,大海人皇子建造了飞鸟净御原宫,正式即位。
        近江朝廷被消灭,天武天皇再次把都城迁往飞鸟(奈良县高市郡明日香村)。
        之后,论功行赏,为了恢复秩序回复而设立新的制度,即服制改革、八色之姓、冠位制度改革等。天武天皇比起天智天皇,在中央集权方面,更进了一步。
        壬申之乱的起因
        关于壬申之乱的起因,列举了几种不同的说法。(不同于《日本书纪》的记载)
        天智天皇在天智天皇2年(663年),企图复兴百济,向朝鲜半岛出兵,与大唐、新罗联军交战(白村江之战),倭军大败,百济复兴战争以惨败告终。为此,天智天皇在玄界滩、濑户内海沿岸修筑国防施设,同时将百济难民迁往东国,将都城从奈良盆地的飞鸟,迁往了琵琶湖南岸的近江宫。另外在国内进行急进的政治改革。但是这些举动给豪族和民众增加了新的负担,产生了很多不满。向近江宫迁都之际,经常发生火灾,豪族、民众对迁都表示不满的意绪开始显现。还有,天智朝的改革忽视地方豪族(特别是东国)的利益,地方豪族之间,忿忿不平。这些种种的不满是壬申之乱发生的背景。
        另有说法认为壬申之乱是飞鸟时代经常发生的皇位继承纷争中的一例。当时,以引进大唐律令制为目标的天智天皇,想一改倭国在同母兄弟间兄终弟及的皇位继承传统惯例,代之以像大唐那样的嫡子相继制,即传位于大友皇子(弘文天皇),引发了大海人皇子的强烈不满。再加上大海人皇子是有能力、有声威的政治家,凝聚了一股支持其即位的势力。这些势力是大海人皇子的根基,前述的改革中各阶层的不满情绪构成了民意基础,天智天皇以后的皇位继承之争成为壬申之乱爆发的契机。
        另外,也有说法认为天智天皇和大海人皇子之间的不和关系是壬申之乱产生的起因。江户时代的伴信友根据《万叶集》所收录的额田王(女性)的和歌内容,推测出为了争夺额田王这个女人,是天智天皇和天武天皇不和的间接原因。
        ……
        日语原文
        壬申の乱(じんしんのらん)とは天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ、明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
        乱の経過
        660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(日本書紀には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを日本書紀の創作とする説もある)に立てていたが天智天皇10年10月17日(671年11月26日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
        12月3日(672年1月10日)、近江宮において天智天皇が46歳で没する。大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月27日)に吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日(8月3日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。
        近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。
        大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
        近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。7月22日(8月23日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月24日)に大友皇子が自決し、乱は収束した。翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。
        近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。
        また論功行賞と秩序回復のため新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。
        乱の原因
        壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。
        天智天皇は即位以前の天智天皇2年(663年)に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。また、国内の政治改革も急進的に行われた。しかしこれらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。さらに、天智朝の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。
        また、飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の1つと見る説もある。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指しており、大海人皇子の不満を高めていった。さらに大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、前述した改革への不満の醸成が壬申の乱の下地を作り天智天皇以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。
        また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は『万葉集』に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している。
        ……
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        (2010)
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 楼主| 发表于 2010-11-12 17:53 | 显示全部楼层

资料-弘文天皇

资料-弘文天皇

        弘文天皇,出生于大化4年(648年),卒于天武天皇元年7月23日(672年8月21日),日本第39代天皇。在位:自天智天皇10年12月5日(672年1月9日),至天武天皇元年7月23日(672年8月21日)。弘文天皇的名字是大友或伊贺,在明治3年被承认为倭国的合法统治者,追谥为天皇。究竟有没有作为天皇即位,历史学界还没有定论,很多时候也被称为大友皇子。
        弘文天皇是天智天皇的长子,母亲是伊贺采女宅子娘(译者注:宅子娘是来自伊贺的采女,地位低下),作为天智天皇的继承人统治倭国,在壬申之乱中被叔父大海人皇子击败后自杀。
        即位说
        据《日本书纪》记载,天智天皇的弟弟册封大海人皇子为东宫(皇太子),后来宠爱自己的儿子大友皇子,违背与弟弟大海人皇子的约定,决定册封大友皇子为皇太子。
        但是,汉诗集《怀风藻》、《万叶集》中记载:“天智天皇册封大友皇子为太子(正式的皇太子)”,也有的学说支持这种观点。
        大友皇子在668年(天智7年)成为太子,4年后的671年(天智10年),成为太政大臣而辅政。
        《日本书纪》天智10年(671年)11月的条目有“丙辰,大友皇子在内里西殿织佛像前,左大臣苏我赤兄臣、右大臣中臣金连,苏我果安臣,巨势人臣,纪大人臣侍焉。大友皇子手执香炉,先起誓盟曰:‘六人同心,奉天皇诏,若有违者,必被天罚,云云。’于是,左大臣苏我赤兄臣等手执香炉,随次而起,泣血誓盟曰:‘臣等五人随于殿下,奉天皇诏,若有违者,四天王打,天神地祇,亦复诛罚。三十三天,证知此事,子孙当绝,家门必亡,云云。”
        这里的“天皇之诏”(诏勅)的内容并不明确,有学者认为是天智天皇指示众大臣支持大友皇子即位。
        672年冬,天智天皇去世,弘文天皇在壬申之乱中战败并自杀,到死前的统治时间只有短短的半年,并没来得及举行即位的仪式。因此,弘文天皇一直不被承认为日本的历代天皇之一。明治3年(1870年),天智天皇被追谥为“弘文天皇”,被承认是当时的合法统治者。
        平安时代的文献,有很多记载了大友皇子即位。如:
        * 最早的是10世纪成书的《西宫记》中有天智天皇10年的“于12月即帝位”的记载。
        * 《扶桑略记》记载“天智天皇10年10月,大友太政大臣被立为皇太子。12月3日,天皇架崩。同月5日,大友皇太子即帝位”。
        * 《年中行事秘抄》记载大友皇子“成为皇太子,即帝位”。
        * 《立坊次第》(绍运要略)记载在天智天皇10年に“同年12月5日即帝位”。
        * 《水镜》记载“10月大友皇子被立为东宫”、“天智天皇10年12月3日,天智天皇驾崩,同月5日大友王子继位”。
        * 《大镜》在天智、天武的继承部分没有涉及大友皇子即位的事件,但在别处有记载“大友皇子不久即帝位,以帝之身份去世”。
        像这样,在平安时代是把“大友皇子即位”当作事实的。但是,平安时代比7世纪的壬申之乱晚得多的时代了,还有这些文献中的多数是在《扶桑略记》影响之下的作品。《大镜》中还有“大友皇子即位成天武天皇”的简单错误,作为史料的可信性很有疑问。这一点上,《水镜》等也有同样的问题,“天智天皇行踪不明,所以两日后大友皇子即位。急促的日程与前后的诸代天皇有明显的差异,存在疑点。
        还有的观点认为:天智天皇死后,其皇后倭姬王即位,大友皇子作为皇太子称制,掌握实权。
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        日语原文
        弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)又は 伊賀(いが)。明治3年に諡号を贈られ天皇として認められたが、天皇として即位したかどうか定かではなく、大友皇子が用いられることも多い。
        天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが、壬申の乱により叔父 大海人皇子に敗死する。
        即位説
        『日本書紀』には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子と定めたと記されている。しかし漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。
        父・天智が668年(天智7年)に即位してから4年目の671年(天智10年)に太政大臣となり、その政務を補佐した。
        『日本書紀』天智10年(671年)11月の条に、「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官と共に宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。大友皇子が香炉を手にして立ち、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った。」とある。
        丙辰 大友皇子在內裏西殿織佛像前 左大臣 蘇我赤兄臣 右大臣 中臣金連 蘇我果安臣 巨勢人臣 紀大人臣侍焉
        大友皇子手執香鑪 先起誓盟曰 六人同心 奉天皇詔 若有違者 必被天罰 云云 於是 左大臣 蘇我赤兄臣等手執香鑪 隨次而起 泣血誓盟曰 臣等五人隨於殿下 奉天皇詔 若有違者 四天王打天神地祇 亦復誅罰 三十三天 証知此事 子孫當絕 家門必亡 云云
        ここでいう「天皇の詔」(詔勅)の内容は判然としないが、天智天皇の死後に大友皇子を践祚させることを指示していたものと考えられている。
        672年冬の天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、践祚に関連する儀式を行うことは出来なかった。そのため、歴代天皇としては数えられておらず、明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号を贈られて天皇として認められた。
        平安時代の文献には、大友皇子の即位が数多く記されている。
        * もっとも早いのは10世紀に書かれた『西宮記』で、天智天皇10年の「12月に帝位に即く」とある。
        * 『扶桑略記』は、「天智天皇10年10月に大友太政大臣が皇太子に立った。12月3日に天皇が崩じた。同5日に大友皇太子が帝位についた」と記す。
        * 『年中行事秘抄』には、大友皇子が「皇太子となり帝位に即く」とある。
        * 『立坊次第』(紹運要略)には、天智天皇10年に「同年12月5日帝位に即く」とある。
        * 『水鏡』は、「10月には大友皇子を東宮に立てた」、「天智天皇10年12月3日に失せたため、同5日に大友王子が位を継いだ」とする。
        * 『大鏡』は天智・天武の継承では大友皇子の即位に触れないが、別のところで「大友皇子はやがて帝になり、帝のまま失せた」と記す。
        このように、平安時代には大友皇子即位が事実として受け入れられていたと言ってよい。しかし、7世紀の壬申の乱からみて時代が下ることは否定できず、また、数の多さは部分的には『扶桑略記』の影響力の産物でもある。『大鏡』は大友皇子が天武天皇になったとする単純な誤りがあり、史料としての信頼性に疑問がある。その点は『水鏡』なども同じで、天智が行方不明になったのでその2日後に大友皇子が即位したとする。急な日程は前後の諸天皇と著しく異なり、不審がある。
        また、地位についても倭姫王(天智天皇の皇后)を立てて皇太子として称制していたとの説もある。
        ……
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 楼主| 发表于 2010-11-14 12:24 | 显示全部楼层

资料-天武天皇

资料-天武天皇

        天武天皇,生于舒明天皇3年(631年)?,卒于朱鸟元年9月9日(686年10月1日),是《皇统谱》所记载的日本第40代天皇。在位:自天武天皇2年2月27日(673年3月20日),至朱鸟元年9月9日(686年10月1日)。
        汉风谥号的“天武天皇”,如历代天皇一样,是由奈良时代的淡海三船奉敕进上,意为“上天立武王,消灭暴君”(典故来源于周武王灭纣,大友皇子被认为是暴君)。
        和风谥号是天渟中原瀛真人天皇。这个和风谥号很具道教的色彩。天武13年(684年)10月,对日本传统的氏姓制度进行改革,定八色之姓,最高级别的就是“真人”。
        即位前名为大海人皇子,这名字与天武天皇幼年养育于凡海氏(海部一族的伴造)有关,当时以养育者取幼名是惯例。天武天皇是舒明天皇的第三子,母亲是宝皇女(皇极天皇),天智天皇(中大兄皇子)、间人皇女的同母弟。
        据《日本书纪》的记载,天武天皇文武双全、德才兼备,还擅长天文学、精通占星术。
        喜欢玩双六游戏,据说曾招臣下玩双六,对战之时对臣下进行赏赐。也有说法认为,天武天皇的事迹大多根据《日本书纪》的记载,但这个《日本书纪》中的天武天皇形象,是由编纂的中心人物天武天皇之子舍人亲王润色加工之后的形象。还有在《日本书纪》中,记载了天智天皇册封天武天皇为皇太弟,否定了大友皇子被立太子的事实,书中为天武天皇的皇位继承正当化的意图显而易见。
        有说法认为,天武天皇将当时日本的最高统治的称呼由“大王”改为“天皇”。这种天皇的称号由天武天皇开始的说法得到了广泛的支持,是历史学界的主流。按这种说法,天武天皇是实际上第一代天皇(但是,有天皇之号最早可以追溯到推古朝的观点,还有还晚的大宝年间以后的观点)。还有,宫廷歌人柿本人麻吕的和歌中也有“大君是天神降世”的句子,到了这个时期,天皇开始有了神格。
        在壬申之乱中,天武天皇消灭了天智天皇之子大友皇子(弘文天皇),在飞鸟净御原宫即位。《日本书纪》中记载的壬申之乱是大友皇子对才德与势力兼备的下任天皇大海人皇子的叛乱,被大海人皇子消灭。当时的大友皇子有没有即位,是不是更具正统性,关于这一点的争议在历史上一直没有停止过。如果当时大友皇子已经即位,则大海人皇子就是篡夺了弘文天皇的皇位。
        但无论如何,天武天皇即位后,于天武10年(681年)2月,命令制定飞鸟净御原令,以建立律令国家为目标。天武元年(673年)5月,改革官僚机构,畿内出身供职宫中者,首先作大舍人,之后再根据其才能酌情授与官职。同时这个大舍人的资格不仅属于官吏,也向庶民开放。
        天武5年(676年),畿外的人也可以入京作官,首先作为兵卫负责宫城的警护。天武7年(678年),制定官吏的勤务评定(考)和官位升进(选)相关的考选法。天武13年(684年),制定八色之姓,确立朝廷的身分秩序,施行新冠位制,将冠位赋与扩大至亲王。实行削弱豪族的化策,废止豪族对部曲的人身所有权(废除奴隶制),并改革食封制度。
        天武一直实行皇族专权的皇亲政治。与此相对的,在行政机构方面也设立太政官和大弁官并立,授与上层官僚贵族无实权的“纳言”一职,天皇的命令主要通过大弁官向地方传达。还有,天武天皇统治期间,彻底的实行皇亲政治,没有置大臣之职(译者注:大臣是日本古坟、飞鸟时代的官职,权势很大,之前权倾朝野的苏我虾夷、入鹿父子的家族苏我氏就世袭大臣之职)。为了明确地方的支配体制,《日本书纪》天武13年(684年)10月的条目记载:“派遣伊势王等堪定诸国之界”,推进地方的行政组织建设。
        天皇的宗教性权威也得到提高。据说斋宫的制度化也是在天武朝。从天武朝开始有新尝祭和大尝祭的区别,这些都保持到了现在。对佛教,营造大官大寺(即大安寺)等的同时,也加强了对僧尼的统一管理。
        天武天皇擅长占星术,再加上当时阴阳之道等在律令国家的大唐和新罗也很盛行,受到这些影响,天武天皇设置了占星台和阴阳寮。建造了为祈祷皇后(后来的持统天皇)病愈的药师寺。但是这个药师寺是建在飞鸟(遗址位于奈良县橿原市),不是现在药师寺。
        除了修建飞鸟净御原宫之外,在难波也建造了宫殿。这个难波的宫殿是仿效大唐等国的复都制所建的陪都(副都)。另外,也有说法认为藤原京的建造也是开始于天武天皇时代。
        在外交方面,676年新罗统一了朝鲜半岛,新罗使者来到日本,天武天皇也向新罗派遣遣新罗使,与新罗保持外交联系,因此与当时同新罗对立的大唐断绝外交关系。
        天武4年4月17日(675年5月19日),颁布了肉食禁止令,从4月1日(5月3日)开始到9月30日(10月27日)之间保护幼鱼、禁止食用五畜(牛、马、狗、猴、鸡)之肉。(译者注:之后的日本除了爱吃鱼肉和海产品之外渐渐养成了不吃畜、禽肉的习惯,直到明治维新之后才有所改变。)
        “庚寅诏诸国曰:自今以后,制诸渔猎者,莫造槛阱,及施机枪等类。亦四月朔以后,九月三十日以前,莫置比满沙伎理梁,且莫食牛、马、犬、猿、鸡之肉,以外不在禁例。若有犯者罪之”——《日本书纪》
        下诏“政之要在于军事”,命令畿内的官吏们进行武器和骑马的训练。日本最古老的货币“富本钱”也是在天武天皇的时代发行的。
        作为建设律令国家政策的一环,到天武11年(681年),命令一改当时日本独有发型“角发”为与戴冠相称的“顶髻”。天武12年(682年),位阶区别的颜色显示由原来的冠的颜色改为朝服颜色。
        生卒年
        世系表上,显示天武天皇是舒明天皇之子,天智天皇之弟。但也有说法认为天武天皇是天智天皇的异母兄,或是异父兄。
        天武天皇的母亲皇极天皇在嫁给舒明天皇之前,曾是高向王的妻子,与高向王之间生有一子汉王,认为汉王与天武天皇是同一人物的“天武异父兄说”就特别有名。在同一史料中,记载并不矛盾(详见下表)。总之,确切的生年并没有确定。
        《日本书纪》以外的主要史料记载的天智天皇、天武天皇的生年(左为天智、右为天武)。
        * 《一代要记》…推古天皇27年(619年)、30年(622年)
        * 《仁寿镜》…推古天皇22年(614年)、不明
        * 《兴福寺略年代记》…舒明天皇3年(631年)、12年(640年)
        * 《神皇正统记-如是院年代记》…同为推古天皇22年(614年)
        * 《神皇正统录-本朝皇胤绍运录》…推古天皇22年(614年)、30年(622年)
        * 《皇年代略记》…推古天皇22年(614年)、31年(623年)
        也有对怀疑这些成书于更晚年代的史料的可信性的反驳,如“《一代要记》等记载的65岁是56岁(同55岁)的误写,逆推则是631年出生”的说法就很有说服力。
        年谱
        * 舒明天皇3年(631年)?,大海人皇子诞生。
        * 天智天皇7年(668年),天智天皇立大海人皇子为皇太弟(也有持否定的观点)。
        * 天智天皇10年(671年),重病的天智天皇托付后事,以皇位相许,大海人皇子固辞,出家并移居吉野。
        * 弘文天皇元年(672年),壬申之乱中击败了天智天皇之子大友皇子(弘文天皇)。
        * 弘文天皇2年(673年),在飞鸟净御原宫即位。
        * 天武天皇4年(675年),废止豪族对部曲的人身所有权(废除奴隶制)。设置占星台。
        * 天武天皇5年(676年),设置阴阳寮。
        * 天武天皇7年(678年),制定官吏的勤务评定和官位升进相关的考选法。
        * 天武天皇8年(679年),行幸吉野。让皇后、草壁皇子等皇子起誓不发起皇位继承之争(吉野之盟)。
        * 天武天皇9年(680年),为了祈祷皇后(后来的持统天皇)病愈,命令建造药师寺。
        * 天武天皇10年(681年),命令制定飞鸟净御原宫律令。册立草壁皇子为皇太子。
        * 天武天皇11年(682年),命令废除匍匐礼,代之以立礼。
        * 天武天皇12年(683年),发行富本钱。
        * 天武天皇13年(684年),制定八色之姓。
        * 天武天皇14年(685年),制定冠位四十八阶。
        * 朱鸟元年(686年),去世。
        子孙
        天武天皇的玄孙称德天皇去世后,皇统从天武系转移到了天智天皇之孙光仁天皇之手。光仁天皇废除了通过皇后井上内亲王而继承了天武系血统的皇太子他户亲王,皇位由光仁天皇的侧室高野新笠(译者注:祖先是来自朝鲜半岛的归化人,家格很低)之子桓武天皇继承,之后由桓武天皇的子孙君临日本,直到现在。
        ……
        日语原文
        天武天皇(てんむてんのう、舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、『皇統譜』によると第40代天皇である(在位:天武天皇2年2月27日(673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。
        漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進され、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとされる。
        和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。この和風諡号は極めて道教的な諡号である。天武13年(684年)10月に旧来の氏姓制度の改革として定められた八色の姓(やくさのかばね)の筆頭が「真人」であった。
        即位前の名は大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)といい、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむもので当時では養育者より幼名をとるのは慣例だった。舒明天皇の第三皇子で母は宝皇女(皇極天皇)であり、天智天皇(中大兄皇子)、間人皇女の同母弟とされる。
        『日本書紀』には才能に恵まれ、武徳に優れ天文・占星の術を得意としたとある。
        双六を好み、臣下を招いて双六を講じた際に臣下に対し褒美を与えたという。天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられているが、これは『日本書紀』の作成を命じたのが天武天皇であり、編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王であることから、潤色が加えられているとの見方もある。また同書では、当初から兄・天智天皇の皇太弟であったと記されているが、大友皇子立太子の事実を否定した記述であり、天武天皇の皇位継承正当化の意図が見える。
        天武天皇がそれ以前の大王という呼称を「天皇」に改めるよう命じたとする説がある。天皇の称号は天武天皇が始めたとする説が広く支持されており、非常に有力となっている。これによれば、天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなる(ただし、天皇号をより早く推古期に求める説や、遅く大宝以降とする説もある)。また、宮廷歌人柿本人麻呂の歌にも「大君は神にしませば」で始まる歌があるように天皇自身の存在もそれまでとは違う神格的な存在となっていった。
        壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を滅ぼし、飛鳥浄御原宮で即位する。『日本書紀』は、次期天皇として有力視され実力にも恵まれていた大海人皇子に対して反乱を起こした大友皇子が滅ぼされたとする歴史叙述を行っている。この際に大友皇子がすでに即位していたか否かで正統性が一方に傾くため、この点に関しての議論は絶えない。もし大友皇子がその時までに正統に即位していたのならば、大海人皇子は弘文天皇の皇位を簒奪したことになる。
        ともあれ、天皇即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ(天武10年(681年)2月)、律令国家の確立を目指す。天武元年(673年)5月に官僚機構の整備として畿内出身者で宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもあった。
        天武5年(676年)、畿外の人々にも官人への道を開き、彼らには最初は兵衛として宮城の警護の役目を与えた。また天武7年(678年)、官人の勤務評定(考)や官位の昇進(選)に関して考選法を定めた。さらに天武13年(684年)、八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した。
        さらに一貫した皇族だけの皇親政治を行った。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を1人も置かなかった。地方の支配体制を明確にするために『日本書紀』天武13年(684年)10月の条に「伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ」とあり、地方の行政組織づくりが進んだ。
        天皇の宗教的権威も高められた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。
        天皇自身、占星を得意としたのに加え、当時陰陽道などが律令国家である唐や新羅で盛んに行われたのが影響もしてか占星台や陰陽寮も設置させている。皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って薬師寺を建立させている。ただしこの薬師寺の建立地は飛鳥であり、現在の地ではない(現在、この薬師寺の址として奈良県橿原市に本薬師寺址という史跡が存在する)。
        飛鳥浄御原宮を建造したほか難波にも宮殿を建造した。この難波の宮殿は唐などの複都制に倣った陪都(副都)であるとされている。また、藤原京の建造を開始したのも天武天皇のときであるとする説もある。
        外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶した。
        天武4年4月17日(675年5月19日)のいわゆる肉食禁止令で4月1日(5月3日)から9月30日(10月27日)までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリ)の肉食を禁止する。
        庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻阱 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 雞之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之 - 『日本書紀』
        「政(まつりごと)の要は軍事(いくさのこと)なり」と記した詔を発し、畿内の官人らに武器や乗馬の訓練をするように命じている。日本最古の貨幣とされている「富本銭」も天武天皇の時代に発行された。
        律令国家を目指しての政策の一環としてか、天武11年(681年)にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。また、天武12年(682年)には位階を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更している。
        生没年
        系図上では父が舒明天皇で天智天皇の弟とされているが、「天武天皇は天智天皇の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」といった説も一部に存在する。
        特に、母皇極天皇が舒明天皇の前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物ではないかとする考え(天武異父兄説)が有名であるが、同一史料には矛盾は見られない(詳しくは下記参照)。いずれにせよ、正確な生年は未詳である。
        日本書紀以外の主な史料の天智・天武の生年(左が天智、右が天武の生年)。
        * 一代要記…推古天皇27年(619年)・30年(622年)
        * 仁寿鏡…推古天皇22年(614年)・不明
        * 興福寺略年代記…舒明天皇3年(631年)・12年(640年)
        * 神皇正統記・如是院年代記…共に推古天皇22年(614年)
        * 神皇正統録・本朝皇胤紹運録…推古天皇22年(614年)・30年(622年)
        * 皇年代略記…推古天皇22年(614年)・31年(623年)
        これらの説については、後世の史料の信頼性を疑問視する反論もあり、「『一代要記』などの65歳は56歳(同55歳)の写し間違いであり、逆算して631年生まれである」との説が有力である。
        年譜
        * 舒明天皇3年(631年)? 誕生
        * 天智天皇7年(668年) 天智天皇の皇太弟に立てられたとされる(否定する説もある)。
        * 天智天皇10年(671年) 重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。
        * 弘文天皇元年(672年) 壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破る。
        * 弘文天皇2年(673年) 飛鳥浄御原宮にて即位する。
        * 天武天皇4年(675年) 部曲を廃止する。占星台を設置する。
        * 天武天皇5年(676年) 陰陽寮を設置する。
        * 天武天皇7年(678年) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める。
        * 天武天皇8年(679年) 吉野に行幸する。皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)。
        * 天武天皇9年(680年) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。
        * 天武天皇10年(681年) 飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。
        * 天武天皇11年(682年) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。
        * 天武天皇12年(683年) 富本銭の発行。
        * 天武天皇13年(684年) 八色の姓を定める。
        * 天武天皇14年(685年) 冠位四十八階を制定する。
        * 朱鳥元年(686年) 崩御。
        子孫
        玄孫の称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移った。光仁天皇には皇后井上内親王を通じて天武系の血を引く皇太子・他戸親王がいたが廃太子され、側室を母に持つ桓武天皇の系統が長く現在まで続く事になる。
        ……
        (百度百科已经接受了我翻译整理的天武天皇资料)
        (2010)
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 楼主| 发表于 2010-11-14 21:26 | 显示全部楼层

资料-持统天皇

资料-持统天皇

        持统天皇,生于大化元年(645年),卒于大宝2年12月22日(703年1月13日),日本第41代天皇,是实际上理政的女帝。称制:自朱鸟元年9月9日(686年10月1日),至持统天皇4年1月1日(690年2月14日)。在位:自持统天皇4年1月1日(690年2月14日),至持统天皇11年8月1日(697年8月22日)。名字是鸬野赞良皇女。和风谥号有2个。一个是《续日本纪》记载的大宝3年(703年)12月17日火葬之际的“大倭根子天之广野日女尊”;另一个是《日本书纪》记载的养老4年(720年),作为历代天皇一起被追谥,“高天原广野姬天皇”。汉风谥号“持统天皇”是和历代天皇一起由淡海三船所进上,由熟语“继体持统”中的“持统”得来。
        壬申之乱之前
        鸬野赞良皇女的父亲是天智天皇(中大兄皇子),母亲据说是苏我远智娘,外公是苏我石川麻吕。大田皇女是鸬野赞良皇女同父同母的姐姐。
        大化5年(649年),鸬野赞良皇女的外公右大臣苏我石川麻吕被告谋反,被中大兄皇子领兵攻击,自杀而亡。苏我石川麻吕之女、中大兄皇子之妻苏我造媛悲伤于父亲之死,不久也病死。有历史学者认为鸬野赞良皇女之母苏我远智娘就是苏我造媛。如果是这样的话,鸬野赞良皇女幼年时就失去了母亲。
        齐明天皇3年(657年),鸬野赞良皇女13岁之时,嫁给叔父大海人皇子(日后的天武天皇)。中大兄皇子除了鸬野赞良皇女之外,还将大田皇女、大江皇女、新田部皇女等共4个女儿嫁给了弟弟大海人皇子。齐明天皇7年(661年),鸬野赞良皇女与大海人皇子一起跟随天智天皇行幸九州。天智天皇元年(662年)在九州,鸬野赞良皇女生下草壁皇子,第二年大田皇女生下大津皇子。在天智天皇6年(667年)之前,大田皇女去世,鸬野赞良皇女成了大海人皇子的妻子中身份最高的人。
        壬申之乱
        天智天皇10年(671年),大海人皇子为了避免政争,隐居于吉野之时,鸬野赞良皇女带着草壁皇子跟随。《日本书纪》等史料没有明确的记载,是作为大海人皇子妻子中的一员到了吉野,还是只有鸬野赞良皇女到了吉野。
        大海人皇子在第二年发起了壬申之乱。鸬野赞良皇女带着自己的孩子草壁皇子及别人生的大海人皇子的孩子忍壁皇子,跟随大海人皇子向美浓方向急行军。因为疲劳的原因,与大海人一行告别,滞留在伊势。《日本书纪》中记载,鸬野赞良皇女和大海人皇子一起制定了叛乱的计划。
        天武天皇的皇后
        大海人皇子在叛乱中取胜后,在天武天皇2年正月即位,册封鸬野赞良皇女为皇后。
        据《日本书纪》的记载,天武天皇在位的时候,皇后也一直辅助天武天皇,在政事方面献言献策。
        679年,天武天皇与皇后、草壁皇子等6皇子交换吉野之盟。6皇子是草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川岛皇子、芝基皇子,其中川岛皇子和芝基(志贵)皇子是天智天皇之子,其余4人都是天武天皇之子。天武天皇让皇子们起誓不争夺皇位,互相帮助,让皇子们互相拥抱。之后又让皇后和皇子们相互拥抱。
        为了祈祷皇后病愈,天武天皇命令建造药师寺。
        681年,天武天皇在皇后的陪伴下,在大极殿招集诸皇子、诸王、诸臣,开始编纂飞鸟净御原宫律令,公布当时只有19岁的草壁皇子为皇太子。当时的日本,还没有过无实务能力的年少者据皇太子之位的前例。据推测是皇后的强烈要求。
        大约从685年左右开始,天武天皇开始常常生病,皇后开始代替天武天皇执政,成为当时日本的实际统治者。686年7月,天皇下诏:“天下之事,无论大小,必须向皇后和皇太子报告”。皇后和草壁皇子开始共同执政。
        大津皇子的谋反
        大津皇子比草壁皇子小1岁,母亲大田皇女是和草壁皇子的母亲鸬野赞良皇女的姐姐。《日本书纪》中记载大津皇子举止优雅、谈吐不凡、富有才学,受到天武天皇的宠爱,日本诗赋的兴起由大津皇子开始。《日本书纪》却没有记载任何对草壁皇子的赞辞。拥立草壁皇子的血脉的政权下编纂而成的《日本书纪》竟然作了这样的记载,在所有历史学者中也没有任何人否认两人的能力差别。大津皇子的母亲早逝,草壁皇子的母亲却一直健在,并被立为皇后成为了草壁皇子的后盾。草壁皇子被立为皇太子之后,大津皇子虽然也参与了朝政,但草壁皇子的皇太子地位已经稳固。
        但是,天武天皇死后的第二天10月2日,经川岛皇子的密告,大津皇子的谋反被发觉,自杀而亡。具体是怎样一个谋反计划,史书并没有记载。皇位继承凭实力夺取在当时的时代是常事。因此,有观点认为也许大津皇子有谋求皇位的举动,有一些危险的言行被持统天皇得知后,粉碎了大津皇子的阴谋。但也有很多学者认为大津皇子并没有谋反的计划,只是因为是草壁皇子潜在的竞争对手,被持统天皇先发制人处死。但总之,持统天皇决断狠辣是学界的共识。
        持统天皇的称制与即位
        天武天皇,耗时2年3个月,经过让皇族、臣下再三列席的一连串的葬礼后,才得以下葬。这时皇太子以率领官吏的形象示人,意图是是为了加强草壁皇子作为皇位继承者的印象。
        但是,689年4月,草壁皇子病故,皇位继承计划被完全打乱。持统天皇虽然寄望于草壁皇子之子,当时只有7岁的轻皇子(后来的文武天皇),但轻皇子过于年幼,只能先立为皇太子。就这样持统天皇选择了由自己即位。
        即位后,持统天皇进行大规模的人事变动,任命高市皇子为太政大臣,多治比岛为右大臣。不立大臣(译者注:大臣是日本古坟、飞鸟时代的官职,权势很大,之前权倾朝野的苏我虾夷、入鹿父子的家族苏我氏就世袭大臣之职)的天武朝的皇亲政治,得到修正。
        持统天皇的统治
        持统天皇时期,继承并完成了天武天皇的政策,做了飞鸟净御原令的制定和藤原京的营造两件大事。
        营建新京是天武天皇的心愿,有天武天皇时已经开始着手,和在持统天皇时才正式开始等两种不同的说法。
        另外还忠实的继承了天武天皇对官吏们武备、武艺的奖励的政策。
        在民政方面,制作了户籍,即庚寅造籍。687年7月,免除了685年以前负债的利息。尝试调整奴婢的身份,命令百姓、奴婢穿着指定的颜色的衣服。
        实行这些律令国家建设、整备政策的同时,持统天皇也绞尽脑汁的利用持统天皇的权威来提高自己的声望。
        持统天皇让柿本人麻吕作赞颂天皇的和歌。柿本人麻吕尽管官位低微,但受到持统天皇的私人庇护,终持统天皇一生都是作为“宫廷诗人”为天皇歌功颂德,之后转任地方官吏。
        与天武天皇所不同的是频繁的行幸吉野。不仅是访问是留有丈夫天武天皇回忆的地方,也是为了借用天武天皇的权威来提高自己威望。其它的记录有行幸伊势一次,行幸纪伊一次。据《万叶集》的记述,近江也有可能行幸了一次。伊势行幸,因为妨碍了农事,被中纳言三轮高市麻吕强谏。这次行幸意图是让地方豪族们继续协助藤原京的营造。
        天武天皇生前为皇后(持统天皇)病愈而祈愿,开始兴建的大和国的药师寺在持统天皇时期完成,持统天皇定药师寺的寺格为勅愿寺。
        外交方面继承天武天皇的政策,与新罗开展外交,与大唐没有官方的外交关系。
        不承认与新罗的对等关系,强迫新罗向日本朝贡。新罗因为当时与大唐对抗,所以不得以承认了这种不平等的关系。日本向新罗派遣了学问僧等留学生。
        让位于文武天皇
        持统天皇统治期间的大部分,高市皇子(天武天皇长子)是太政大臣。高市皇子尽管母亲的身份低微,但是在壬申之乱战功卓著,据推测在政务方面也积累了声望。高市皇子即使不是正式的皇太子,也是被众人拥护的皇位继承人的有力候补。
        高市皇子在持统天皇10年7月10日去世。据《怀风藻》的记载,这时关于持统天皇之后的继承人问题,持统天皇招集皇族、臣下商议,很多主张应该由天武天皇其他儿子继承皇位,但持统天皇意图让自己的孙子轻皇子(逝世的皇太子草壁皇子之子)继承,随着葛野王对众人一声大喝,出了结果,697年2月,册立轻皇子为皇太子。
        持统天皇在8月1日,让位于15岁轻皇子。轻皇子即文武天皇。日本史上,持统天皇是在世的天皇中皇极天皇之后第二个让位的,并且是第一个太上天皇(上皇)。
        让位后的持统上皇
        持统上皇让位后仍与文武天皇并座,处理政务。文武天皇时代最大的政绩是大宝律令的制定、施行,也被认为是持统上皇的意志。但是,代替壬申之乱功臣的藤原不比等这些倾倒于大唐文化年轻人材崛起,持统朝受到打压的刑部亲王(即忍壁皇子,高市皇子去世后成为天武天皇之子中最年长者)复出政坛,所以也有学者认为文武朝有了变化,不完全是持统上皇的意志所主导。
        持统上皇在大宝元年(701年),去了多年未去的吉野。第二年长途旅行,远至三河,犒赏了壬申之乱中立有功劳的地方豪族。
        大宝2年(702年)12月13日,持统上皇病发,22日去世。经1年的殡礼后火葬,骨灰合葬于天武天皇之墓。这次是天皇火葬的首例。
        人物评价、历史学家的论点
        《日本书纪》中的人物形像
        《日本书纪》记载持统天皇“深沈大度、好礼节俭、有母德”等等。
        女帝持统的作用和野心
        持统天皇是从7世纪到8世纪,日本古代很有特色的女性天皇(女帝)中的一位。与其他女帝常常由别人代行执政不同,持统天皇统治期间的政策被认为是由持统天皇亲自推行的。持统天皇不是政治上的装饰品,而是有执政能力的实质的统治者,是历史学者的共识。《日本书纪》记载持统天皇辅佐天武天皇平定天下,在政治的各个方面献言献策。《续日本纪》记载持统天皇退位于文武天皇后仍与文武天皇并座,处理政务。持统天皇对政治的干预不仅限于其在位期间。持统天皇和天武天皇一起,被和歌歌颂为“大君是天神降世”,天皇权力强化路线达到了最高点。
        作为政治家的持统天皇的作用和动机,通常的看法是持统天皇要在天武天皇之后,由其子草壁皇子、孙轻皇子继承皇位。持统天皇希望草壁皇子被立为天武天皇的继承人,说服天武天皇策立草壁皇子为皇太子,在天武天皇死后,又排除了草壁皇子的潜在皇位竞争者大津皇子。持统天皇计划在天武天皇的葬礼结束之后,就让草壁皇子即位,但草壁皇子在计划实现前就去世,不得已只能由自己亲自即位。
        但是近年也有观点认为,持统天皇并不是只打算做一个政权过渡人物,而是要作为君主行使实质性政治权力。持统天皇从一开始,就以皇位为目标,拥有政治上的野心。
        由持统天皇筹划的谋略
        以持统天皇积极进取的性格和优秀的能力为前提,有很多谋略被认为是持统天皇所筹划。
        壬申之乱,通常的看法是由鸬野赞良皇女协助大海人皇子发动。但也有观点认为鸬野赞良皇女就是壬申之乱的首谋。
        关于大津皇子的谋反,认为由持统天皇所诬陷的学者比较少。认为大津皇子也并不是没有野心,只是一些不慎的言辞就被上升扩大到谋反程度的学者有很多。
        与此相关的《万叶集》的和歌中有针对大津皇子设密探监视的说法。
        还有持统天皇暗杀高市皇子以立轻皇子为太子的说法。
        ……
        持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、またはうののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたとされる。
        壬申の乱の前まで
        父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。
        大化5年(649年)、ぶ告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、美濃は当時三野とも書いたので、三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。美濃津子娘と造媛が同一人物なら、鸕野讃良は幼くして母を失ったことになる。
        斉明天皇3年(657年)、13才のときに、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。その地で天智天皇元年(662年)に讚良皇女は草壁皇子を産み、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、讚良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。
        壬申の乱
        天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠せいしたとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる。
        大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は我が子草壁皇子、母を異にする大海人の子忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて伊勢にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。
        壬申の乱のときに土地の豪族尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。
        天武天皇の皇后
        大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられた。
        『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后はずっと天皇を助け、そばにいて政事について助言した。
        679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、芝基皇子で、川島と芝基(志貴)が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。
        皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。
        681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編さんを始め、当時19才の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。
        685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。
        大津皇子の謀反
        大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。立ち居振る舞いと言葉使いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない。2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。
        しかし、天武天皇の死の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。川島皇子の密告という。具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い。いずれにせよ、速やかな反応に持統天皇の意志を見る点は共通している。
        持統天皇の称制と即位
        天武天皇は、2年3か月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったともされる。
        ところが、689年4月に草壁皇子が病気で死んだため、皇位継承計画は根本的に狂ってしまった。草壁皇子の子、当時7才の軽皇子(後の文武天皇)に望みを託すとしても、軽皇子はあまりに幼く、当面は皇太子に立てることさえはばかられた。かくて鸕野讃良は自ら即位することにした。
        即位の後、天皇は大規模な人事を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。
        持統天皇の治世
        持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。
        新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも、持統天皇が開始したとも言われる。
        また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継いだ。
        民政においては、戸籍を作成した。庚寅の造籍という。687年7月には、685年より前の負債の利息を免除した。奴婢(ぬひ)身分の整とんを試み、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じた。
        こうした律令国家建設・整備政策と同時に持統天皇が腐心したのは、天武の権威を自らに移し借りることであったようである。
        持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた。人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。
        天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。他に伊勢に一度、紀伊に一度の行幸を記録する。『万葉集』の記述から近江に一度の行幸も推定できる。伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言三輪高市麻呂のかん言を押し切った。この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図が指摘される。
        持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。
        外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。
        新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された。
        文武天皇への譲位
        持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。
        その高市皇子が持統天皇10年7月10日に死んだ。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった。
        持統天皇は8月1日に15才の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。
        譲位後の持統上皇
        譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる。
        持統天皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。
        大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に死去した。1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。
        人物評価・歴史学上の論点
        『日本書紀』にみる人物像
        『日本書紀』は、持統天皇を「深沈で大度」、「礼を好み節倹」、「母の徳あり」などとする。
        女帝持統の役割と野心
        持統天皇は、7世紀から8世紀の日本古代に特徴的な女性天皇(女帝)の一人である。他の女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した政策と理解される。持統天皇が飾り物でない実質的な、有能な統治者であったことは、諸学者の一致するところである。『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており、天皇権力強化路線の最高到達点とも目される。
        政治家としての持統天皇の役割・動機は、天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝えることであったとするのが通説である。持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望み、夫に働きかけて草壁を皇太子に就け、夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した。天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだったが、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自らが即位したと解する。
        しかし近年では、女帝一般が飾り物ではなく、君主として実質的な権力を振るったと考える傾向もあり、鸕野讃良皇女自身が初めから皇位に向けた政治的野心を持っていたとする説が出てきた。
        持統天皇による謀略説
        持統天皇の積極的性格と有能さを前提として、彼女による様々な謀略が説かれている。
        壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある。
        大津皇子の謀反については、持統天皇の攻撃的意図を見ない人の方が少ない。大津皇子の無実を説くか、そうでなくともわずかな言葉をとらえて謀反に仕立て上げられたと考える学者が多い。
        関連して『万葉集』の歌にまつわる対大津監視スパイ説がある。
        さらに、持統天皇が高市皇子を暗殺して軽皇子を立太子させたと主張する説まである。
        ……
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        (2010)
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 楼主| 发表于 2010-11-15 11:38 | 显示全部楼层

资料-文武天皇

资料-文武天皇
  
        文武天皇,生于天武天皇11年(683年),卒于庆云4年6月15日(707年7月18日),日本的第42代天皇。在位:自文武天皇元年8月1日(697年8月22日),至庆云4年6月15日(707年7月18日)。名字是珂瑠或轻。和风谥号有两个,一个是《续日本纪》707年(庆云4年11月12日)记载的“倭根子丰祖父天皇”,另一个是《续日本纪》797年(延历16年)追谥的“天之真宗丰祖父天皇”。
        文武天皇是草壁皇子(天武天皇次子、母亲是持统天皇)的长子。母亲是阿陪皇女(即元明天皇)。父亲草壁皇子还只是皇太子时就去世,并没有即位,所以本来并没有资格称为“皇子”,而应该被称为“王”(译者注:当时日本的习惯是只有天皇之子才能称为皇子,皇子之子称王,王的地位要比皇子低)。但祖母持统天皇是轻的后台,所以在轻被立为太子之前,也是被称为轻皇子,享受皇子待遇。
        草壁皇子在持统天皇3年4月13日(689年5月7日)去世;持统天皇10年7月10日(696年8月13日),轻皇子的伯父高市皇子也去世;持统天皇11年2月16日(697年3月13日),轻皇子被册立为太子。文武天皇元年8月1日(697年8月22日),持统天皇让位于轻皇子;8月17日(9月7日),轻皇子即位。因为当时文武天皇只是个15岁的少年,所以历史上第一个太上天皇持统上皇让位后,仍然充当文武天皇的监护人,与文武天皇并座,处理政务。大宝元年8月3日(701年9月9日),大宝律令完成,第二年公布。还废止了混乱的冠位制,设定新的官位制。大宝年间以前,日本只有零散的年号记录,在大宝年间,年号制度成形。
        在《续日本纪》中,没有文武天皇的皇后、妃的正式记录。皇族出身是当时的日本成为皇后、妃的必要条件,文武天皇的妻子中,夫人(译者注:夫人是当时日本的一种后妃等级,比皇后、妃要低)藤原宫子的地位是最高的。皇后必须是皇族出身是当时的社会常识,当初内定皇位继承人的时候,没能考虑到轻皇子没有应该成为将来的皇后的皇族出身的妃,是出于某种特殊的原因?或者是史料记载遗漏(被删除)了?
        在梅原猛的《黄泉之王》中,根据《万叶集》中纪皇女(译者注:天武天皇之女,文武天皇的姑姑兼妻子)就是文武天皇的妃的记载,提出纪皇女因为与弓削皇子(译者注:天武天皇第九子)私通,所以妃的身份被废的假说。关于纪皇女的记录差一点完全没有保留下来,将来的皇后有偷情这种理所不容的事,所以名字从官方正式记录中被抹去,真相并不清楚。
        文武天皇在位时的年号
        大宝:元年3月21日(701年5月3日)-4年5月10日(704年6月16日)
        庆云:元年5月10日(704年6月16日)-5年1月11日(708年2月7日)
        大宝律令
        大宝律令是参考大唐的永徽律令(651年制定)而编成的日本史上最早的“律”、“令”(译者注:关于刑罚的条文称为律,把关于国家政治制度的条文称为令)齐全的法典。
        大宝律令的编纂可以追溯到681年。当时天武天皇朝开始制定律令,天武天皇去世后的689年(持统3年6月),制定、颁布了飞鸟净御原令。但是,飞鸟净御原令只是大宝律令的先驱性法典,并没有“律”的部分,并且有很多不符合当时日本国情的部分。
        之后律令编纂的工作仍在继续,特别是新律令是否符合日本国情,是一个重大的课题。そして、700年(文武4年),“令”的部分大体完成,剩下“律”的条文制定。701年(大宝元年8月3日),大宝律令完成。参加律令选定的人有刑部亲王(忍壁皇子)、藤原不比等、粟田真人、下毛野古麻吕等人。
        为了大宝律令在全国范围内施行,大宝元年8月8日,朝廷向西海道以外的6道(译者注:当时的七道指的是本州岛中部太平洋沿岸的东海道、九州岛的西海道、四国岛及纪伊的南海道、本州岛中部日本海沿岸的北陆道、本州岛南部濑户内海沿岸的山阳道、本州岛南部日本海沿岸的山阴道、中央山脉的东山道,当时的北海道、东北地区不在中央朝廷的控制之内)派遣明法博士,讲解新法令。第二年的702年(大宝2年2月1日),文武天皇向诸国颁布大宝律;10月14日,向诸国颁布大宝律令。
        大宝律令的施行,是代表了660年代的百济复兴战争战败以后,持续的古代国家建设事业到达一个最高点的日本古代史上的画时代事件。也有说法认为大宝律令之后,第一次制定了“日本”的国号(译者注:之前一直是自称“倭国”)。
        在7世纪后半期以后,百济灭亡等紧迫的东亚国际情势之下,倭国开始推行中央集权化,以保持政权的稳定,保障国家独立。因此,当时的倭国朝廷参照大唐、朝鲜半岛的统治制度,制定了近江令、飞鸟净御原令等,基于王土王民思想进行国家建设,并最终完成了集大成的大宝律令。由此,日本的律令制得以建立。大宝律令的法律效力到达了当时的日本朝廷所支配的几乎所有的地区(东北地区除外的本州、四国、九州的大部分)。
        ……
        日语原文
        文武天皇(もんむてんのう、天武天皇11年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之眞宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)がある。
        草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(元明天皇)。父草壁は皇太子位のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと思われる。
        父草壁が持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に亡くなり、同10年7月10日(696年8月13日)には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年3月13日)立太子。文武天皇元年8月1日(697年8月22日)、祖母・持統天皇から譲位されて天皇位に就き、同月17日(9月7日)更に即位の詔を宣した。当時15歳という若さであったため、持統が史上初の太上天皇として後見役についた。大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。
        公式記録の続日本紀には妃・皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、夫人の藤原宮子が妻の中で一番上位であった。皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消した)とされる。
        このことについて梅原猛著『黄泉の王』では、万葉集を根拠に紀皇女こそ妃であったが 弓削皇子と密通し、それが原因で妃の身分を廃されたという仮説を述べている。紀皇女については記録が殆ど残されておらず、将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から抹消されたということであるが、真相は不明である。
        在位中の元号
        大宝 元年3月21日(701年5月3日)- 4年5月10日(704年6月16日)
        慶雲 元年5月10日(704年6月16日)- 5年1月11日(708年2月7日)
        大宝律令
        大宝律令(たいほうりつりょう)は唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。
        大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
        その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。
        大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日には大宝律令を諸国に頒布した。
        大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説も唱えられている。
        7世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため、近江令、飛鳥浄御原令を制定するなど、当時の政権は、唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。その集大成が大宝律令の完成であった。これにより、日本の律令制が成立したとされている。大宝律令による統治・支配は、当時の政権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶこととなった。
        ……
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 楼主| 发表于 2010-11-15 11:38 | 显示全部楼层

【元明天皇】

【元明天皇】
        元明天皇,生于齐明天皇7年(661年),卒于养老5年12月7日(721年12月29日),日本第43代的天皇,奈良时代的首位天皇,女帝。在位:自庆云4年7月17日(707年8月18日),至和铜8年9月2日(715年10月3日)。名字是阿陪皇女或阿闭皇女。
        阿陪皇女是天智天皇第四女,鸬野赞良皇女(持统天皇)的异母妹妹兼儿媳。阿陪皇女之母是苏我石川麻吕之女苏我侄娘,和鸬野赞良皇女之母苏我远智娘是姐妹。阿陪皇女是天武天皇与持统天皇之子草壁皇子的正妃。
        和风谥号是“日本根子天津御代丰国成姬天皇”。
        675年,有史料记载阿陪皇女与十市皇女一起参拜伊势神宫。
        679年左右,阿陪皇女嫁给侄子草壁皇子。后来草壁皇子没有即位就早逝,姐姐兼婆婆鸬野赞良皇女(持统天皇)和儿子轻皇子(文武天皇)相续即位。
        707年4月,在草壁皇子的忌日(旧历4月13日)为其举行国忌,不久文武天皇就病逝。文武天皇之子首皇子(日后的圣武天皇)仍然年幼,阿陪皇女作为过渡天皇即位,是日本历史上第一个没有做过皇后就即位的女帝。
        708年,由武藏国秩父(黑谷)进献了和铜,因此改元为和铜,开始铸造和铜开宝。这是一个修正、推行701年所制定的大宝律令的时期,因此重用了精通实际政务的藤原不比等。
        710年,由藤原京迁都平城京。左大臣石上麻吕作为藤原京的管理者留守于藤原京,因此,右大臣藤原不比等成为了实际上的最高权力者。
        712年,太安万侣进上《古事记》。
        713年,《风土记》编纂完成。
        715年,实施乡里制。同年9月2日,元明天皇以年老为理由让位,因为孙子首皇子仍然年幼,于是让位于女儿冰高皇女(即元正天皇)。
        721年5月,元明上皇发病,招集女婿长屋王和藤原房前托付后事,下遗诏令葬礼从简,12月7日去世。
        ·
        日语原文
        元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、奈良時代初代天皇で第43代の天皇で女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿陪皇女(あへのひめみこ)。阿閇皇女とも。
        天智天皇の第四皇女で、鸕野讚良皇女(持統天皇)は父方の異母姉妹、母方の従姉妹で、夫の母であるため姑にもあたる。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいらつめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。
        和風諡号は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」(やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめのすめらみこと)である。
        675年に十市皇女と共に伊勢神宮に参拝の記録がある。
        679年頃、おいの草壁皇子と結婚したものの、草壁皇子は即位することなく早世し、姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位した。
        707年4月には夫・草壁皇子の命日(旧暦4月13日)のため国忌に入ったが、直後、息子天皇が病に倒れ、崩御してしまった。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。
        708年に武蔵国秩父(黒谷)より和銅が献じられたので、和銅に改元し、和同開珎をちゅう造させた。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった、そのため、実務にたけていた藤原不比等を重用した。
        710年、藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
        712年、古事記が献上され、713年には風土記が編さんされた。
        715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲った。721年5月に発病し、娘むこの長屋王と藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて、12月7日に崩御した。
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 楼主| 发表于 2010-11-15 16:36 | 显示全部楼层

【大伴旅人】

【大伴旅人】

        大伴旅人,生于天智天皇4年(665年),卒于天平3年7月25日(731年8月31日),奈良时代早期的政治家、诗人,大纳言大伴安麻吕之子,官位是从二位大纳言。
        714年(和铜7年),父亲大伴安麻吕去世。
        718年(养老2年),被任命为中纳言。
        720年(养老4年),成为山背摄官,之后作为征隼人持节大将军,镇压隼人的叛乱。
        神龟年间(724年-729年),作为大宰帅(译者注:九州岛的最高行政长官)在妻子和儿子(大伴家持、大伴书持)的陪伴下到九州大宰府赴任,与山上忆良一起形成了筑紫诗坛。妻子在大宰府去世后,妹妹大伴坂上郎女(译者注:日本奈良时代的著名诗人)来到大宰府,养育大伴家持(译者注:日本最著名的诗人之一,据说是《万叶集》的编辑者)、大伴书持兄弟。
        730年(天平2年),被任命为大纳言,返回平城京(奈良)。
        731年(天平3年),官位晋升为从二位,不久病逝。在政治上是长屋王派(译者注:当时日本皇族中有威望者,是藤原氏的政治对手)。
        汉诗集《怀风藻》收录了大伴旅人的汉诗作品,《万叶集》也选录了大伴旅人的和歌作品78首。和歌中的大部分是在出任大宰帅以后的作品。有咏酒和歌十三首(国歌大观编号0338-0350),作为特别喜爱酒的诗人为世人所知。
        家谱
        大伴金村-(子)大伴阿被布古-(子)大伴咋-(子)大伴长德、大伴吹负
        大伴长德-(子)大伴安麻吕-(子)大伴旅人-(子)大伴家持
        ·
        日语原文
        大伴 旅人(おおとも の たびと、天智天皇4年(665年) - 天平3年7月25日(731年8月31日)は奈良時代初期の政治家、歌人。大納言・大伴安麻呂の子。官位は従二位・大納言。
        714年(和銅7年)父の安麻呂が亡くなる。718年(養老2年)に中納言に任じられる。720年(養老4年)山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧した。神亀年間(724年-729年)には、大宰帥として九州の大宰府に妻と子(家持・書持)を伴って赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。妻を大宰府で亡くした後には大伴坂上郎女が西下し、家持、書持兄弟を養育している。730年(天平2年)大納言に任じられ京に戻り、翌731年(天平3年)従二位に昇進するが、まもなく病を得て没した。政治的には長屋王派とされている。
        漢詩集『懐風藻』に漢詩作品が収められ、『万葉集』にも和歌作品が78首選出されているが、和歌の多くは大宰帥任官以後のものである。酒を讃むるの歌十三首(国歌大観番号0338-0350)を詠んでおり、酒をこよなく愛した人物として知られる。
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 楼主| 发表于 2010-11-15 17:46 | 显示全部楼层

【大伴家持】

【大伴家持】

        大伴家持,生于养老2年(718年)左右,卒于延历4年8月28日(785年10月5日),奈良时代的政治家、诗人,大纳言大伴旅人之子,官位是从三位中纳言,三十六歌仙之一。
        尽管大伴家持是作为《万叶集》的编纂相关的诗人为世人所熟知,但大伴氏是古坟时代的著名军事氏族,在飞鸟时代也是著名的武门。大伴家持像祖父大伴安麻吕、父亲大伴旅人一样作为政治家而名留史册,在天平政争中幸存了下来,在延历年间晋升为中纳言。
        父亲大伴旅人作为大宰帅到大宰府赴任之际,大伴家持和母亲、弟弟大伴书持一起跟随父亲到九州。后来母亲去世,大伴家持兄弟又由来到九州的姑母大伴坂上郎女所养育。
        730年(天平2年),父亲大伴旅人被任命为大纳言,大伴家持随父亲一起返回平城京(奈良)。
        天平10年(738年),大伴家持成为内舍人(译者注:天皇的近身侍卫)。
        天平12年(740年),圣武天皇为祈愿藤原广嗣之乱的平定而行幸伊势,大伴家持随行。
        天平17年(745年),大伴家持的官位晋升为从五位下。
        天平18年(746年)3月,大伴家持被任命为宫内少辅。7月大伴家持被任命为越中守。在此期间作下220余首诗歌。
        天平胜宝3年(751年)大伴家持作为少纳言返回平城京后。在天平胜宝6年(754年)出任兵部少辅。第二年,到难波检校防人(译者注:日本飞鸟、奈良时代的一种军事制度,白村江之战日本惨败给大唐、新罗联军后,认为大唐有可能会兴兵讨伐日本,非常恐惧,于是在设立防人制度,防备边境)。这次与防人的相会,使大伴家持在《万叶集》中收集了很多防人歌。
        天平宝字2年(758年),大伴家持出任因幡守。
        尽管大伴家伴没有参加天平宝字元年(757年)发生的橘奈良麻吕之乱,但是藤原良继(藤原宿奈麻吕)、石上宅嗣、佐伯今毛人等3人制定了暗杀藤原仲麻吕的计画。暗杀计划没实施就被发现而中止。虽然罪责由藤原良继等人承担,大伴家持并没有被问罪,但是在平宝字8年(764年)大伴家持转任萨摩守就是一项报复性的人事变动。
        神护景云1年(767年),大伴家持转任大宰少贰。
        神护景云4年(770年),称德天皇去世后,大伴家持就任左中弁兼中务大辅的要职,同年官位晋升为正五位下。在光仁朝,大伴家持历任式部大辅、左京大夫、卫门督等京师要职和上总、伊势等大国之守,升迁顺利。宝龟11年(780年),担任参议,位列公卿。宝亀12年(781年),官位晋升到从三位。
        进入了桓武朝后的天应2年(782年),大伴家持被怀疑参与冰上川继之乱,暂时被罢免官职,流放出平城京,从而认识到政治的残酷一面。延历2年(783年),大伴家持虽然晋升为中纳言,但在延历4年(785年)兼任了陆奥按察使持节征东将军之职,留在了陆奥国,并在那里去世。
        大伴家持死后,在营建中的长冈京发生了藤原种继暗杀事件,大伴家持又被牵连其中,不允许遗体下葬,并剥夺了大伴家持一切官职。大伴家持之子大伴永主也被流放到隠岐国。大同3年(806年),大伴家持的罪被赦免,恢复了从三位的官职。
        大伴家持的长歌、短歌共计473首被《万叶集》收集,超过了《万叶集》全体诗歌总数的一成。因此,大伴家持被认为与《万叶集》的编纂有关。《万叶集》卷十七至二十,是大伴家持的私人歌集。
        ·
        日语原文
        大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。
        『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
        父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母・弟(書持)とともに任地に従っている。後に母を亡くし、西下してきた大伴坂上郎女に育てられた。天平2年(730年)旅人とともに帰京。
        天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙せられる。天平18年(746年)3月に宮内少輔、7月に越中守に任ぜられた。この間に220余首の歌を詠んだ。
        天平勝宝3年(751年)、少納言に任ぜられ帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字2年(758年)に因幡守。
        天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされる。暗殺計画は未遂に終わり、藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったが、天平宝字8年(764年)に薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。神護景雲1年(767年)大宰少弐に転じる。
        神護景雲4年(770年)称徳天皇が没すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、同年正五位下に昇叙。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する一方で順調に昇進、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列し、翌宝亀12年(781年)従三位に叙せられた。
        桓武朝に入ると、天応2年(782年)には氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)に中納言に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没した。
        没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に配流となった。大同3年(806年)に罪を赦され従三位に復された。
        長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。
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 楼主| 发表于 2010-11-15 22:36 | 显示全部楼层

资料-贞成亲王等3人

资料-贞成亲王等3人

(本文包括由我翻译创建,被百度百科接受了的,押坂彦人大兄皇子、伏见宫荣仁亲王、伏见宫贞成亲王等3位本人虽然没有即位,但仍然是当今日本皇室直系父系祖先的皇族的资料)
……
【押坂彦人大兄皇子】
        押坂彦人大兄皇子,生卒年不详,日本古坟时代的皇族。又名麻吕古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄。押坂彦人大兄皇子是敏达天皇的长子,母亲是息长真手王之女广姬。押坂彦人大兄皇子是舒明天皇、茅渟王的父亲。(译者注:押坂彦人大兄皇子虽然本人没有即位成为天皇,但是通过儿子舒明天皇,其血统融入了现在的日本皇室当中,是当今日本天皇的父系祖先之一。)
  押坂彦人大兄皇子是没有苏我氏血统的敏达王统的最有实力者,拥有忍坂部(刑部氏)、丸子部等独立的财政基础,离开王都经营水派宫(今奈良县河合町?)。用明天皇去世(587年)后,押坂彦人大兄皇子虽然成为了王位继承者的候补,但此时对立的苏我系王族崛起,押坂彦人大兄皇子的事迹从此不见于史料,有人推测押坂彦人大兄皇子死于苏我氏的暗杀。但是,根据《一代要记》、《绍运录》逆推舒明天皇的生年是593年,而且舒明天皇之后还有弟弟出生,所以592年推古天皇即位后,押坂彦人大兄皇子仍然有一段时间在世。作为非苏我系的王位继承候补者,应该拥有可以和押坂彦人大兄皇子与苏我系的竹田皇子、厩户皇子(圣德太子)比肩的地位。607年,资养王位继承人厩户皇子(圣德太子)的壬生部被设立,在此之前,押坂彦人大兄皇子似乎已经去世。根据《延喜式》中诸陵寮的记载,押坂彦人大兄皇子葬于成相墓(奈良县广陵町的牧野古坟?)。
  忍坂部、丸子部等押坂彦人大兄皇子的世袭私领被称为“皇祖大兄御名入部”,以后由押坂彦人大兄皇子的儿子田村皇子(即后来的舒明天皇)、中大兄皇子(即后来的天智天皇,舒明天皇之子)继承,大化改新后返还国家(据《日本书纪》大化2年3月壬午条的记载)。这些世袭私领,是在押坂彦人大兄皇子去世后,其子孙与苏我氏、上宫王族(圣德太子一族)对抗,使舒明天皇即位,大化改新的实现成为可能的财政保证。
        ·
        日语原文
        押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、生没年不詳)は、古墳時代の皇族。麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子・皇祖大兄とも。敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫。舒明天皇・茅渟王の父に当たる。
  蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったらしいが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。但し、『一代要記』や『紹運録』を基に逆算される舒明の生年(593年)とその弟の存在を考えると、592年の推古天皇即位後も暫く生存していたはずで、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。『延喜式』諸陵寮によれば、成相墓(ならいのはか、奈良県広陵町の牧野古墳か)に葬られた。
        忍坂部や丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられており、彦人大兄の死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われている。
        ……
【伏见宫荣仁亲王】
        伏见宫荣仁亲王,生于观应2年(1351年),卒于应永23年11月20日(1416年12月9日),日本南北朝时代、室町时代的皇族。(译者注:伏见宫荣仁亲王虽然本人没有即位成为天皇,但是通过孙子后花园天皇,其血统融入了现在的日本皇室当中,是当今日本天皇的父系祖先之一。)
        伏见宫是世袭亲王家,荣仁亲王是伏见宫初代当主,也被称为伏见殿、有栖川殿等。
        荣仁亲王是北朝第3代崇光天皇的长子。母亲是大纳言庭田重资之女典侍源资子。妃是三条实治(清华家)之女藤原治子(西御方)。
        应安元年(1368年)正月,荣仁亲王接受亲王宣下(译者注:亲王宣下是日本授予皇族以亲王或内亲王地位的仪式,亲王或内亲王是皇族中级别最高的,只有天皇嫡出的儿女才能获得,庶出者只能得到王或女王的地位,王或女王经过亲王宣下后就获得了亲王或内亲王的地位,而伏见宫等世袭亲王家的当主有接受亲王宣下的资格),被命名为“荣仁”。
        永和元年(1375年)11月,荣仁亲王元服,叙二品。
        让作为持明院统嫡流的第一皇子荣仁亲王即位是荣仁亲王的父亲崇光上皇的心愿。但是,当时皇统分为南北朝,北朝还进一步分为崇光上皇、荣仁亲王的系统和崇光上皇之弟后光严天皇的系统,想实现让荣仁亲王登极的心愿,很困难。应永5年(1398年)正月,崇光上皇去世,荣仁亲王失去最大的后盾,在同年5月出家,法名通智。同年8月,移居洛北萩原殿。
        应永6年(1399年)12月,荣仁亲王移居伏见殿。应永8年(1401年),伏见殿毁于火灾,荣仁亲王移居嵯峨洪恩院。应永10年(1403年),荣仁亲王移居有栖川山庄(有栖川殿),因此又被称为有栖川殿。应永16年(1409年)6月,回到历代皇室的御领伏见,从此被称为伏见殿。荣仁亲王的伏见御领,以后由他的子孙依次传承下去,这就是伏见宫的起源。应永23年11月20日(1416年),荣仁亲王去世,享年66岁,法号大通院。
        荣仁亲王还擅长琵琶、笙、和歌等各种艺术,是伏见宫家以乐道传家的起源。
        ·
        日语原文
        伏見宮栄仁親王(ふしみのみや よしひとしんのう・榮仁親王、観応2年(1351年) - 応永23年11月20日(1416年12月9日))は、南北朝時代、室町時代の日本の皇族。読み方は「なかひと」とも。
        世襲親王家、伏見宮初代当主。伏見殿、有栖川殿などと称する。
        北朝第3代崇光天皇の第1皇子。母は、大納言庭田重資の女、典侍源資子。 御息所は三条実治(清華家)の女、藤原治子(西御方)。
        応安元年(1368年)正月親王宣下を受け、栄仁と命名される。
        永和元年(1375年)11月元服し、二品に叙せられる。
        父帝崇光上皇は、持明院統嫡流として第一皇子である栄仁親王の即位を念願していた。しかし、皇統が南北朝、さらには北朝自体が崇光上皇、栄仁親王の系統と崇光天皇の弟である後光厳天皇の系統に分立するなど、情勢は栄仁親王の登極が実現するには厳しいものがあった。応永5年(1398年)正月崇光上皇が崩御し、最大の後ろ盾を失った栄仁親王は、同年5月出家した。法名は通智(つうち)。同年8月に洛北萩原殿に移る。
        応永6年(1399年)12月伏見殿に移るが、応永8年(1401年)伏見殿が火事で焼け落ち、嵯峨洪恩院に移る。応永10年(1403年)には有栖川山荘(有栖川殿)に移り、有栖川殿と称する。応永16年(1409年)6月に皇室累代の御料である伏見に戻り、伏見殿と称されるようになる。親王の伏見御料は、以後子孫相次いで伝領され、これが伏見宮の起源となる。応永23年11月20日(1416年)薨去(死去)。66歳。法号は大通院。
        また、栄仁親王は、琵琶、笙、和歌など諸芸能に堪能で、伏見宮家が楽道を家業とする起源を作った。
        ……
【伏见宫贞成亲王】
        伏见宫贞成亲王,生于应安5年3月5日(1372年4月9日),卒于康正2年8月29日(1456年9月28日),室町时代的皇族,世袭亲王家之一的伏见宫3代目当主。尊号是后崇光院。(译者注:伏见宫贞成亲王虽然本人没有即位成为天皇,但是通过儿子后花园天皇,其血统融入了现在的日本皇室当中,是当今日本天皇的父系祖先之一。)
        伏见宫是持明院统的嫡流、北朝第3代崇光天皇的系统。贞成亲王的父亲是荣仁亲王、母亲是三条实治之女藤原治子。伏见宫2代目当主治仁王是贞成亲王的兄长。妃是庭田经有(宇多源氏庭田家)之女源幸子(敷政门院)。
        贞成亲王从小养育于今出川家,终身未忘左大臣今出川公直、左大臣今出川公行的养育之恩(译者注:今出川氏即菊亭氏,是九清华家之一,出自藤原北家闲院流,是西园寺家的庶流)。贞成亲王对音乐和和歌的喜爱,也是受到了幼时环境的影响。应永18年(1411年)4月4日,40岁的贞成亲王才终于在伏见御所元服,改名为“贞成”,被接回到父亲荣仁亲王的身边。之后,常住在伏见御所。
        应永23年(1416年)11月20日,荣仁亲王去世。第二年的应永24年(1417年)2月11日,荣仁亲王的继承人治仁王也猝死,贞成亲王成为兄长的继承人。尽管贞成亲王被怀疑有毒杀兄长,但后小松上皇和四代将军足利义持却对贞成亲王很放心。因为伏见宫是北朝的正统(译者注:伏见宫的始祖荣仁亲王是北朝第3代天皇的嫡长子),所以经常被天皇家猜忌。应永25年(1418年),贞成亲王被怀疑有私通称光天皇的已怀孕的仕女,由于将军足利义持的调解,贞成亲王在同年7月17日提交了起誓书,逃过一劫。
        称光天皇有一度短暂处入病笃状态,贞成亲王成为天皇候补。应永32年(1425年)4月16日,贞成亲王接受了亲王宣下(译者注:亲王宣下是日本授予皇族以亲王或内亲王地位的仪式,亲王或内亲王是皇族中级别最高的,只有天皇嫡出的儿女才能获得,庶出者只能得到王或女王的地位,王或女王经过亲王宣下后就获得了亲王或内亲王的地位,而伏见宫等世袭亲王家的当主有接受亲王宣下的资格)。病愈后的称光天皇得知这些消息后极为震怒,仅仅3个月后的7月5日就在伏见指月庵剃发出家,法号道钦。正长元年(1428年)7月,称光天皇再度病笃,六代将军足利义教成为贞成亲王之子彦仁王的庇护人,请求后小松上皇立彦仁王为新帝。彦仁王被后小松上皇认作义子后即位,即后花园天皇。永享7年(1435年),贞成亲王移居京都新建的伏见御所。文安4年(1447年)11月27日,贞成亲王被后花园天皇赠以太上天皇的尊号,被称之为后崇光院。第二年的文安5年(1448年)2月22日,贞成亲王辞退尊号。
        贞成亲王有《看闻日记》、《椿叶记》等著作传世,墓所在伏见松林院陵。
        ·
        日语原文
        伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさしんのう、応安5年3月5日(1372年4月9日) - 康正2年8月29日(1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。尊号は後崇光院(ごすこういん)。
        持明院統の嫡流、北朝第3代崇光天皇の系統。父は栄仁親王、母は三条実治の娘、藤原治子。2代目当主の治仁王は兄弟。御息所は庭田経有(宇多源氏庭田家)の娘、源幸子(敷政門院)。
        幼少時から今出川家で養育される。左大臣今出川公直・左大臣公行父子が養親となり貞成は終生その養育の恩を忘れなかった。音楽や和歌に親しんだのも幼時の環境による。応永18年(1411年)4月4日、40歳でやっと伏見御所に元服し貞成と名乗り、父栄仁親王のもとに迎えられる。以降、当所に常住。
        応永23年(1416年)11月20日栄仁親王没、翌24年(1417年)2月11日に栄仁親王の後を継いだ治仁王も急死し、貞成が後継となる。貞成には兄を毒殺した嫌疑がかけられるが、後小松上皇や四代将軍足利義持から安堵を受けた。伏見宮は北朝の正統であったために天皇家からは猜疑心をもって見られることが何かと多かった。応永25年(1418年)に称光天皇の仕女である新内侍が懐妊した際にも密通の嫌疑がかけられたが、義持のとりなしがあり、貞成は同年7月17日に起請文を提出するなどして辛くも虎口を免れた。
        称光天皇が一時期危篤状態へ陥ると次期天皇の候補にもなり、応永32年(1425年)4月16日には親王宣下を受ける。だが、回復した称光天皇がこの報を聞くと激怒したため、わずか3ヶ月後の7月5日伏見指月庵で薙髮、出家に追い込まれた。法号道欽。正長元年(1428年)7月に再び称光天皇が重態に陥ると、六代将軍の足利義教は貞成の実子である彦仁王を庇護し、後小松上皇に新帝の指名を求める。後小松は彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させる。永享7年(1435年)には、京都に造営された新しい伏見御所に移る。文安4年(1447年)11月27日に貞成親王は太上天皇の尊号を贈られ、後崇光院と呼ばれた。翌5年(1448年)2月22日に尊号を辞退した。
        著作に、『看聞日記』、『椿葉記』がある。墓所は伏見松林院陵。
        ……
        (2010)
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